カナダ ユーコン

大学と先住民族との共働

2.4.1 2021年夏、子どもたちの遺体が見つかる

2021年夏は、カナダの先住民族(とくにファーストネーション)と政府にとって、とても大きな出来事がありました。

5月下旬、ブリティッシュコロンビア州カムループスにある先住民族寄宿学校跡において、215人の子どもの遺体が埋められていることがわかった(その中には3歳の子どもも含まれる)、と発表されたのです。
(参考:この報道をしたカナダ公共放送CBCのニュースサイト

墓地に埋葬されていたのではなく、墓碑もなく、ただ地下に埋められていることが、地中を調べるレーダーを使ってわかった、それもカムループスを居住地とするファーストネーションの部族であるTk’emlúps te Secwépemc自身が技術者を雇い、行った調査によってわかった、というのです。

このニュースは当初、日本ではあまり大きく報道されませんでした(朝日新聞デジタル版のみ)。しかし、カナダ全土には大きな衝撃を与え、直後の6月には、カナダ先住民族に対する迫害の歴史を振り返り、生存者に敬意を表する日として、9月30日を「真実と和解の日」(National Day for Truth and Reconciliation)という国の記念日(法定休日Public Holiday)にすることが決まりました。

寄宿学校のようすを描いたジム・ローガンの連作「子どもたちへのレクイエム」(1990)より(ユーコンアートセンター所蔵)。オレンジ色の衣服は、寄宿学校の生徒を象徴する。Jim Logan’s “Requiem for Our Children”

カムループスで子どもたちの遺体が発見された後、寄宿学校の被害者を追悼するオレンジ色のシャツを身につけた人たちのデモや、子ども用の靴を215足並べるプレゼンテーションが各地で行われました。さらには、他の地域でも同様に学校跡の調査が行われ、サスカチュワン州では751体の遺体の存在が見つかるなど、この数はまだ増えそうです。

そもそもなぜこのような遺体が今まで知られずに埋められてきたのでしょうか。

カナダの国策として寄宿学校が運営されていた1870年代から1996年までの間に、推定15万人の先住民族の子どもが家族から引き離されて学校に入れられ、記録上は4100人の子どもが何らかの事情で亡くなったとされています。しかし実際には、もっと多くの子どもたちが最終的に家に戻ることなく行方不明になっています。
こうした事例については、「学校から逃げて行方不明になった」などといった説明がなされてきたものの、寄宿学校では肉体的・性的・精神的虐待が行われていたことがわかっており、そうしたことが原因で亡くなった子どもがひそかに葬られているのではないかと考えられてきました。

先住民族の子どもが学校からいなくなっても、どうして「行方不明」で済まされてきたのでしょう。

子どもを学校に預けた家庭では、子どもが帰ってこないのに探そうとしなかったのでしょうか……まさか。家族は、どうしてうちの子どもは帰ってこないのかと訊いたはずです。しかし、捜索が行われず、遺体の検査が行われず(行われたとしても「事件性はなし」で終了とされ)、家族への説明もないままに遺体が埋められたとしたら……。

実は、2010年代にはすでに、公式に発表されているよりはるかに多くの子どもたちが寄宿学校で亡くなり、埋葬とは言えない方法で埋められていることを、カナダ真実和解委員会(TRC)は把握していました。ただちに公表されなかったのは、この問題は(当時TRCが行っていた調査とは別に)きちんと調査されるべきと考えられたからでした。しかし真実和解委員会の訴えは受け入れられず、調査も説明も行われないまま今日に至り、今回はじめてカムループスの寄宿学校跡で証拠が得られたのです。
同様のことは、今日、公立学校に通う先住民族の生徒や、都市に住む先住民族の女性の失踪・死亡事件でも起こっています(→2.2参照)。先住民族の人々が自ら、行方がわからなくなった子どもたちを捜索し、あるいは裁判を起こして十分な捜索や検視もないまま終止符を打たれた事件の真相究明を求めなければ、失われた命は主流社会の中で顧みられることもないのです。想像を絶する差別、命の軽視が今もカナダで起こっているのです。(参考:タニヤ・タラガ著「命を落とした七つの羽根」青土社、5章p179-182)

真実和解委員会が2015年にまとめた、カナダ政府による植民地化政策の歴史とその影響に関する最終報告書。第4巻は行方不明になった子どもたちと人知れず埋葬された遺体について、真実和解委員会が知り得た範囲で書かれています。 Canada’s Residential Schools: Missing Children and Unmarked Burials – NCTR Public

ユーコン準州では、かつて6つのコミュニティ(Forty Mile, Moosehide, Old Crow, Fort Selkirk, Carcross, Whirtehorse)に寄宿学校がありました。CBCニュースなどによれば、ユーコン準州内の複数のコミュニティで、2021年は7月1日のカナダ・デー(カナダ建国記念日)を祝う行事を行わず、歴史に思いをはせ、よりよいコミュニティとカナダをつくっていくことを考える日になりました。「コミュニティ」とは、日本語の「町内」のような意味ではなく、「自治体」に近い存在で、今日では自治政府をもつファーストネーションの行政区に相当します。一部のコミュニティでは、カナダ・デーの行事のための予算を、ユーコン準州政府が今後、寄宿学校跡地に埋まる遺体の調査を行うための基金に拠出することを決めました。

カナダ・デーのお祝い行事をとりやめようという動きはカナダ全土で起こりました。(参考:この報道をしたカナダ公共放送CBCのニュースサイト

こうした動きから連想するのは、オーストラリアで、先住民族アボリジニの人々との和解に向けた国家的動きの契機となった事件「服喪の行進」です。「建国200年」となる1988年のオーストラリア・デー(1月26日、建国記念日に相当)を、お祝いの日ではなく、先祖のアボリジニたちが迫害され殺され文化を奪われてきた200年を振り返り、喪に服す日とするべきであるとの訴えをアボリジニの人々が起こしたものです。シドニーでは大規模な抗議行動が起こり、その模様が全国に報道されてインパクトを与え、王立調査委員会設置、和解委員会設置、などの道のりを経て、2008年に首相による初めての公式謝罪が行われるに至りました。
(参考:窪田幸子、2021、「先住民族との和解にむけて : 謝罪、補償とトラウマの修復」アイヌ・先住民研究1, 67-82. https://doi.org/10.14943/97158.)

カナダでも同様に、1980年代から起こった和解と謝罪に向けた国家的活動の中で2008年に首相による謝罪があり、その後も活動は続いています。今回の寄宿学校跡地での遺体発見は、新たな大きな節目として、和解とトラウマの慰謝に向けた活動に反映されるはずです。

いま私の念頭にあるのは、従軍慰安婦問題や徴用問題を法的・行政的に済んだこととして、和解やトラウマに向き合わない日本政府です。それに、学術目的と称して盗掘されたアイヌの遺骨をコタンに返さず、国立博物館併設の慰霊施設に集めてよしとしてしまっている、私たち日本人の態度のことも。

※北海道大学の前身である開拓使仮学校北海道土人教育所とそこに送られたアイヌの死亡については東京アイヌ史研究会編『“東京・イチャルパ”への道―明治初期における開拓使のアイヌ教育をめぐって』(現代企画室)に詳しい。その他、長谷川修「東京・イチャルパへの道」(アイヌ文化振興・研究推進機構平成20年度普及啓発セミナー報告集)など。

 

寄宿学校のサバイバーであっても

ユーコンカレッジで私が習った先生の一人、リアン・チャーリーLianne Charlieは、授業の初めの自己紹介の際など折に触れて、父親を炭鉱事故で亡くしたと語るとき、いつも涙を流していました。冒頭で紹介した、カムループスでの発見に関する報道の後、リアンはニュースサイトCBC Northへ寄稿し、この中で、彼女の父親は子どものころ寄宿学校に行っていたこと、35歳で亡くなった際に検視官から自然死(die of natural causes)だと告げられたことを書いています。

そして今、彼女が訴えるのは、「35歳の自然死なんてありえない」ということです。
ニュースサイトCBC Northへの寄稿

私は、彼女との交流の中で、カナダの公共事業である炭鉱で亡くなったことが、ファーストネーションの家族にとっての悲しみなのだと理解してきました。しかし、どうやらそれだけではないのではないか、という気もしていました。リアンが授業の中で、カナダの植民地政策と先住民族の自治回復に向けた活動歴史を語る際にみせる情熱、それはほとんど鬼気迫ると言っていいほどでした。私はその頃、寄宿学校がもたらした大きな影響について、まだほとんど知らなかったのでした。

リアン自身は寄宿学校サバイバーの子として、父親の死について、そして家族の歴史について、真実を知ろうとしてきました。寄宿学校に通った経験を持つ人やその家族は、差別と暴力に満ちた過去、拭い去ることのできない悲しみや怒り、植民地主義の下で植え付けられた恐怖と劣等感を、容易に語ることはできません。それは世代を超えたトラウマとなって、コミュニティの人々、あるいは民族全体を覆っています。寄宿学校サバイバーとなった人々は、かろうじて生き延びたというだけで、命を落とし墓碑もなく埋められた子どもたちが受けたのと同じ暴力を受けていたはずです。リアンの父親が35歳の若さで亡くなったのは、決して事故でも自然死でもなかったのではないでしょうか。

今となっては真実を知るすべがなくなってしまっただろうことも、彼女一人だけではなく、ファーストネーションの人々の、植民地主義下におかれた先住民族の人々の、世代や民族を超えて広がる悲しみと怒りの原因なのだと、私はようやく気づきました。

「真実と和解の日」には、植民地主義によって命を奪われた人、深い傷を負った人の顔や声を思い浮かべて、その体験を理解し、和解に向けた歩みを進めたいと思います。

 

2022年03月24日更新