E フシコサッポロ・コタン
このコタンは、フシコサッポロ川(「フシコ」は「古い」の意で、サッポロー豊平川の古い流路)の近くにありました。JR札幌駅の1つ東の苗穂駅から北に行くとサッポロビール博物館があります。その北側の辺り(札幌市東区北9条東9丁目付近)がその位置だと考えられます(加藤2017:51)。
この土地には、幕末の1866(慶応2)年に、箱館奉行の命で幕府役人の大友亀太郎が農家20戸70人を入植させ、札幌村を作りました。その後、開拓使によって形成された「札幌新村」に対し、ここは「札幌元村」と称されるようになりました。
加藤氏によると、この土地にあったアイヌのコタンは、下ツイシカリ(当時のサッポロー豊平川が石狩川に注ぐ河口部)の乙名ルヒヤンケの息子イコリキナが、慶応年間に移ってできたコタンです(加藤2017:51)。
「C-1 いつから「北海道」?」でご紹介した、高見沢権之丞による明治2年の「札幌之図」に記された「土人」の家は、このフシコサッポロのコタンである可能性があります。一方で、加藤氏(2017:45)は「旧上サツホロ場所のコタンの痕跡を示すもの」と推定しており、今後の検証が必要です。
このイコリキナさんは、父の死後、20代で下ツイシカリの乙名となり、「対雁の住居にてエコレキといいけるアイヌあり、札幌諸村に権力ありたる酋長なり。鬚長く美にして威あり」(永田方正『札幌沿革材料』:加藤2017:52より)と聞こえる人物でした。松浦武四郎の案内役となり、フシコサッポロに移ってからは島義勇判官の調査に琴似又市と並んで同行しています1871(明治4)年11月13日には、記録に残るサッポロで最後のイヨマンテ(熊送り)を実施しました(加藤2017:40)。当時のこのコタンにはイコリキナさんを中心に3戸があったようですが、「3戸のコタンで熊送りができるということはアイヌ民族の伝統をしっかり維持し、経済的な余裕もあったということを示している」(加藤2017:53)。
そこに持ち上がったのが開拓使による「東京留学」の話でした(C-3 開拓使仮学校)。フシコサッポロのコタンから1872(明治5)年に東京に行ったのは、イコリキナ(古川伊吾)さん、その弟のイソレクウク(半野六三郎)さんと妻のトラフン(半野とら)さん、イコリキナ家の同居人のオサーピリカ(古川うの)さんの4名でした。「C-3 開拓使仮学校」で述べたように、その内、イコリキナさんが1873(明治6)年に体調不良に陥り、翌年に死亡しました。リーダーを失ったことは、このコタンにとって大きな打撃だったはずです。イコリキナさんの遺体は第三官園(現在渋谷区)の付近に埋葬されたと推測されますが、詳細は定かではありません。
1874(明治7)年に帰郷したイソレクウク(半野六三郎)さんがこのコタンを支えることになりますが、1880(明治13)年ごろにはその人たちも石狩河口の茨戸に移住し、フシコサッポロのコタンの火は消えることになりました。
2013年に北大が開示した「遺骨資料最終版」には、このコタンの付近と思われる場所から出土した遺骨が記載されています。(「北大開示文書研究会」-「大学留置アイヌ遺骨に関する開示文書」-「2013年北大開示文書」-「遺骨資料最終版」、2022年3月7日閲覧)
札幌 札幌1 成年男性1体 頭部大破、四肢骨保存 昭和16年、舊・苗穂小学校跡、副・刀2本あり
これがフシコサッポロ・コタンの住人のものかどうかはわかりません。フシコサッポロ・コタンの辺りの地名は「苗穂」です。山田秀三氏によると、苗穂はアイヌ語の「ナイポ」で、小さな川の意(山田1965:99)。この辺りには古くて、大きいコタンがあったようで、上記の北大の文書に記載されている遺骨が、この古いコタンの住人であった可能性も考えられます。
苗穂は鮭が獲れた為だろう。古くはアイヌの人口も多く、内保(ナイボ)場所等の称があった。当時はアイヌの相当なコタンがあった処で、今の札幌市街の方がむしろ場末であったらしい。但し松浦武四郎が通った幕末の頃には、もうだいぶんさびれていたという。(山田1965:99)
参照文献
加藤好男2017『19世紀後半のサッポロ・イシカリのアイヌ民族』サッポロ堂書店。
山田秀三1965『札幌のアイヌ地名を尋ねて』楡書房。