D 上サッポロ・コタン
「上サッポロ」とは、江戸時代の場所請負制で設けられた「場所」の名前の1つです。松浦武四郎の『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』(『戊午(ぼご)日誌』)の記述に基づく加藤好男氏の推定によると、上サッポロのコタンがあったと思われる場所はフシコ・サッポロ川の上流域、現在の創成川の横のあたり(札幌市中央区北2条東1丁目付近)で、テレビ塔が間近に見えるほどの場所です(加藤2017:45)。
このコタンの住人であったモニオマさんは松浦武四郎の記録に登場します。『戌午日誌』には、1858(安政)年に松浦がサッポロに来た際、上サッポロ小使役のモニオマさんの家に立ち寄ったとの記載があります。このモニオマさんはサッポロ生まれと思われますが、その生没年は不明です。加藤氏によると1865(慶応元)年の人別帳にモニオマさんの名前がないことから、1858(安政4)年の疱瘡流行によって亡くなったのではないかと考えられるとのことです(2022年3月13日の電話での会話)。また1870(明治3年)に、上サッポロのコタンに残っていた1軒のチセに住む70歳のアイヌが亡くなったと『札幌の昔話』という本にありますが(加藤2017:39)、それはモニオマではないようです。
琴似又市さん(⇒B-5 コトニ・コタン3:琴似又市)は、このモニオマさんの妹チシルイと夫婦になります。モニオマさんは琴似又市の義兄ということになります。
このモニオマさんは木彫りの名手だったようで、松浦武四郎がその技に感嘆する文章を寄せています。
「彫物師モニオマ」
石狩場所内の札幌で小使役を勤めるモニオマは今年37歳となり、クスリモンという妻がいたのだが、これは番人に奪われて、今では70余歳のイメクシモという老母と叔母との3人暮らしである。
彼は生まれつき彫物を好み、いつも、匙、手拭掛、小刀の鞘、膳、椀、菓子器、印籠など、さまざまの器物を彫り、又、短刀の鞘に唐草や稲妻などの模様などを彫ると常に人々を驚嘆させるのであった。また舶来の品物を出してそれを真似させると、これまた一段の腕前で、その巧みさは筆舌の及ぶ所ではない。
人から彫物を注文されても、気分がのらなければ3ヶ月でも5ヶ月でも刀を手にしないが、気分が乗ってくると昼夜の別もなしに彫り続ける。そして自分が気に入ればこれを贈るが、気に入らぬときは頼んだ人の目の前でこれを打ち砕いてしまう。
その誇り高い気性は、昔の飛騨の匠たちの左甚五郎、運慶、快慶などの名工もこうであったかとおもわせるものがある。
私は昨巳の年に一つの彫物を依頼し、できあがったので、年月と彼の名前を墨で記して、これを彫りつけるよう頼んだところ、しばらくこれを眺めてから刀をとり彫りあげた。みれば、運筆の遅速をぴたりと写し、みみずがのたくったような筆跡とは大違いである。一文字も知らぬ無筆でありながら、これほど巧みに彫るのであるから驚嘆せぬ者はない。
彼は酒好きで、時たま、自分が彫った品を持ってそっとやってきては鮭をねだるが、これもまた愛すべきことであった。(松浦2002:198-199)
参照文献
加藤好男2017『19世紀末のサッポロ・イシカリのアイヌ民族』サッポロ堂書店。
松浦武四郎2002『アイヌ人物誌』更科源蔵・吉田豊(訳)平凡社(『近世蝦夷人物誌』1858(安政5)年)。