B-5 コトニ・コタン3:琴似又市エカシの足跡
堀三義の1875(明治8)年の日誌に、コトニ・コタンの琴似又市という「長」が登場しました。琴似又市エカシです。この方はどういう人物だったのでしょうか。
開拓使第三官園のアイヌ民族1(北大北方資料室蔵) :大坂拓氏の検証により(大坂2022)、この写真の向かって左端の人物が琴似又市エカシだと推定されています。従来は前列中央のアットゥシを着た人物が又市エカシだとされてきました。
アイヌ語地名研究の山田秀三氏は琴似又市エカシを「札幌の最後の原住者の一人であり、又事実上最初の札幌市民であった」と位置づけています(山田1965:59, 山田1986:206₋207をも参照)。また歴史学者の谷本晃久氏は、又市さんが幕末期おいて和人の言語・風習を身につけ、明治になると石狩川流域のアイヌと開拓使との仲介役としての役割を担ったことに注目し、「状況を的確に判断」し「積極性」をもって行動する生き方を評価しています(谷本2003:107)。
又市(マタイチ、マタエチ、セタエチ、又一、又一郎、亦一郎などとも表記される)さんは、1841(天保12)年、石狩川中流域のウラシナイ(現在の浦臼)に、イコンラムの息子として生まれました(谷本2018:97)。松浦武四郎の1857(安政4)年の記録(『野帳 巳第三番』)によると、16歳のマタイチ少年は、石狩河口に駐在する幕府役人のもとで「めしたき」、すなわち奉公人をしていたようです。そこで彼は和人と変わらぬ日本語を身につけたと考えられます。
その後、1865(慶応元)年から1880(明治3)年の間に、サッポロのコトニに移ったと思われます(加藤2017:99;谷本2003:108)。明治初期の段階で、又市さんはその日本語を活かして、島義勇や岩村通俊ら開拓判官の調査に協力し、たびたび開拓使の記録に登場します。1871(明治4)年には、又市さんは開拓使によって「乙名」に任命されました。乙名とは近世に行政が任命したアイヌ首長の役名です。
又市さんが琴似姓を名乗ることになるのは、明治政府が1871(明治4)年から戸籍法を施行し、アイヌに和人風の姓名を強制(創氏改名)してからです。
1872(明治5)年に東京に設けられた開拓使仮学校北海道土人教育所および開拓使官園に、当初石狩、小樽、夕張などから35名(最終的には計38名)のアイヌが送られますが、又市さんはこの「東京留学」の「取締」を委任されます(C-3「開拓使仮学校」)。黒田清隆が遂行した、この強制同化教育のプロジェクトは、結果的に計5名の死者を出し、又市さんを含む残りのアイヌは2年後の1874(明治7)年に北海道に「帰郷」して、終わりを迎えます。堀三義が又市さんとコトニ・コタンで会い、その『北役日誌』に書き留めるのは、東京から帰って後の1875(明治8)年のことです。
この頃(1875(明治8)~1880(明治13)年)に成立したと思われる、琴似村の戸籍簿において、琴似又市さんの住所は「第56番地」と記されています(『内館泰三筆記史料(八):人口資料)
札幌市公文書館所蔵,『新札幌市史』第2巻 通史2に再録)。
1878(明治11)年1月に開拓使勧業課農事係が発行した書類では、「偕楽園地続旧土人琴似又市所有地」を、新たに作る種稙地(札幌官園の育種場)として「囲込」たいが、当の又市さんが石狩川本流河口域の花畔(ばんなぐろ)に漁業に出ており交渉ができないと書かれています(谷本2018:98₋99)。これは開拓使が又市さんの土地を、その「所有地」と認めていた点で注目されます。
開拓使は1878(明治11)年10月に、札幌郡内の石狩川支流における鮭鱒漁を禁止します(開拓使布達甲第43号)。これが、又市さんらコトニ・コタン(および他のサッポロのコタン)の住民にとって、大きな打撃となったことは想像に難くありません。鮭はアイヌにとって重要な食料源であり、コトニ・コタンの人たちは、サクㇱコトニ川やチェプンぺッなど鮭がさかのぼる川の傍らで暮らしを立ててきたからです。アイヌが長くいとなんできたその生業を、開拓使は一方的に違法にしたのです。これは先住民族の生活を考慮に入れない、不当な政策ではないでしょうか。
コトニ・コタンにいては生活がいとなめなくなった又市さんたちは、その後石狩河口域へと移住します(それはサッポロの他のコタンも同様です)。おそらくはコトニ川をチプ(丸木舟)で下って行ったのでしょう。こうしてサッポロのアイヌ・コタンは無人となっていきました。1882(明治15)年の『札幌県治類典』に「札幌郡篠路村番外地琴似亦一郎・・・」とあります(谷本2003:110)。篠路とはコトニ川の下流域で、石狩川本流の近くにあたります。また谷本氏によると同じ1882(明治15)年の「琴似村地価創定講書」では、又市さんの第56番をはじめ、琴似村のアイヌ住民の番地が欠番となっています(谷本2018:101)。
サッポロのアイヌ・コタンから石狩河口域に移り住んだ人たちは、協力して新しいコタンを作り、新たな生活基盤の確立に向けて奮闘します。1882(明治15)年頃、又市さんの息子エカシテキヲク(琴似栄太郎)さんら11戸が協力して、茨戸太に1万坪の土地の割渡を開拓使に出願します。漁業だけではなく、農業に活路を見出そうとしたのでした。その出願が許可され、栄太郎さんら6戸が移住しています。又市さんも家族と行動を共にしたと思われます。
この頃、又市さんが歴史上の記録に現れるのは、永田方正の聞き取りにおいてです。永田は1889(明治22)年に、「琴似又一郎 篠路村字茨戸を道庁に呼出し問答せるを筆記」したと書いています(永田1984:67)。これは非常に詳細なもので、又市さんのアイヌプリに関する知識の該博さを今に伝えています(永田1984:44-67)。
さて茨戸太での琴似一家の開墾は長続きしませんでした。1889(明治22)年に、その土地を北海道は和人農家へと「下付」し、琴似一家を含む9戸にはさらなる移住が強いられることになります。加藤氏によると、それはカマヤウシのツイピリ(現在の篠路町福移)という、石狩川に突き出した地形の場所で、水害に遭うおそれが高く、また湿地が多いため、和人の農民も手が出ないといわれた条件の悪い土地でした(加藤2017:93-94)。移転した9戸は死亡や転出のためにだんだんと抜けていき、残った人たちを1898(明治31)年の石狩川大水害が襲います。
その翌年に琴似栄太郎さんは、今度は石狩川をさかのぼる形で旭川「旧土人保護地」に移り住みました。おそらくそこに又市エカシの姿はなかったようです。加藤好男氏によると、明治20年代後半に又市エカシはツイピリで亡くなったと推測されるとのことです(加藤2017:94および102)。
明治初期、少なくとも明治5年の「東京留学」まで、開拓使は琴似又市さんを重用しました。又市さんもそれに応えるだけの才覚を備えていました。しかし「開拓」を進めるに従って、アイヌ民族の生活の基盤を奪い、破壊するような政策を開拓使は実行に移していきます。住居やイオル(アイヌが生業をいとなんでいた領域)を官有地に「編入」し、狩猟・漁撈の権利を奪い、条件の悪い土地への移住を余儀なくしていったのです。コトニ・コタンをはじめとするサッポロのアイヌ・コタンは1880(明治13)~1881(明治14)年頃には消滅したと考えられます。自然に消滅したのではなく、開拓使の植民地政策によって消滅させられたのです。
コトニ・コタン(琴似村第56, 57, 58番地)は1878(明治11)~1882(明治15)年の間に官有地である札幌育種場(種稙地)に編入されました。この札幌育種場が1877(明治20)年に、札幌農学校に移管され(谷本2018:101)、今日の北海道大学札幌キャンパスに引き継がれています。先住民族の暮らしの場の上にキャンパスがある。このことを北大の関係者は思い起こさなければなりません。
参照文献
大坂拓2022「琴似又一郎の写真について―北海道大学附属図書館所蔵資料の再検討―」『札幌博物場研究会誌』2022:1-7。
加藤好男1991『石狩アイヌ史資料集』私家版。
加藤好男2017『19世紀末のサッポロ・イシカリのアイヌ民族』サッポロ堂書店。
谷本晃久2003「琴似又市と幕末・維新期のアイヌ社会」『平成14年度普及啓発セミナー報告集』アイヌ文化振興・推進機構:105-111。
谷本晃久2018「近代初頭における札幌本府膝下のアイヌ集落をめぐって : 「琴似又市所有地」の地理的布置再考」『北方人文研究』11: 95-109。
谷本晃久2019「コトニ・コタンと琴似又市氏」北大ACMプロジェクト(編)『北海道大学もうひとつのキャンパスマップ』寿郎社。
谷本晃久2021「「札幌市民第一号」琴似又市氏のこと~幕末維新期の札幌とアイヌ社会~」『開発こうほう』’21.7:14-17。
永田方正1984「人類学に関する問答 石狩土人琴似又一郎の答」河野常吉(編)『アイヌ聞取書』(『アイヌ史資料集』第二期第七巻)北海道出版企画センター:44-67。
山田秀三1965『札幌のアイヌ地名を尋ねて』楡書房。
山田秀三1986『アイヌ語地名を歩く』北海道新聞社。