B-4 コトニ・コタン2:堀三義の日誌
明治初期にコトニ・コタンを実際に訪れた和人がいて、その人が日記に書き残してくれています。それを書いた堀三義は、1854(安政元)年に現在の山形県に生まれた元鶴岡藩士です。1876(明治8)年に桑園開墾のためにサッポロを訪れました。『北役日誌』はその時の日記で、原本は慶應義塾図書館に所蔵されています。それが活字化されて雑誌『札幌の歴史』(新札幌市編集室編、札幌市教育委員会文化資料室刊)の第8, 9, 10号に掲載されています。ここではコトニ・コタン探訪のくだり(『札幌の歴史』9号、1985年、51-53ページ、および10号1986年、55ページ所収)を、原本ではカタカナの送り仮名や漢字を適宜平仮名に直し、句読点を補い、改行して、図と共に採録しました。
八月十一日 朝、陰天 夕、降雨
着府の刻未だ早ければ、近林中の土人の家屋を見に行きしに(土人の事をアイノと云う)、本庁の傍らなる小径を行くこと百余歩ばかりにして、たちまち一森樹の下に到るに、山あいの低地に一軒の官邸あり。家邸の回りには粗木を草蔓をもってつなぎたる長柵を結び回らし、椽(たるき)前には幾重の翠箔を懸け、庭上には湲々たる一清流ありて、水面には雌雄の鷺数羽、翼を併べて遊び戯れたるなど、清閑然として、ほとんど繁華の幌府中とは思われず、あたかもこれ深山幽渓に遁れし隠君子の居とも云うべく、清流閑林実に塵外にあり、この邸は本庁諸官員の散遊場にして名を偕楽園と云うよし、当時は黒沢正吉とて当府大主典の人仮居せりと云う。
それより邸前を過ぎ、幽径を行くこと数百歩にして即ち土人の居村に到るに、家屋二三軒ありて、その造りは草茅をもって屋を葺き、形、俗にすり鉢と言える陶器をふせしがごとく、入り口一ケ処と、屋半に一小窓を開きたるのみ、大抵略図に似たり。
屋中暗々として穴のごとく、その中に衰老の夫婦、火を焼きて炉辺により居たり。何れも身には古びたる短衣を着け、顔色は甚だ醜悪にして、耳に輪鉄を懸け、老婦は鼻下に藍をもって青色を加えたり。その身辺には諸獣の皮肉および魚肉、木皮等を置けり。また一段高き処に、左方の図の如き奇器あり。何なるを解すべからず(同行の鵜飼氏云う、これは兼ねて聞く所の義経より与えられしと云う陣具ならんと)。
老婦の坐側には木皮を糸の如く割きたるを、梭(ひ)の如き器に巻きたるあり。これいわゆる厚衣(アツシ)を織る木皮也と云えり。その家屋および屋中の体何ぞ言語筆記等の尽し所ならんや、親しく目視するにあらずは、その函居蛮屋如、これを詳らかにせん、実に世外の居と云うべし。毎居皆この如し。それより本庁地内を通り、異草珍花及び器機にて熟麦を苅るを見るにその器の便巧みを極め、一苅一束おのづから成り、みるみる数十束を苅れり。
九月十六日 晴天
十一時過ぎより道庁その近傍なる偕楽園に遊び(先日土人の居村に行く時通りし所也)、それより土人の居村を見に行き(琴似村と云う)、土人長琴似又市なる者より雁皮を得(雁皮樹皮の皮也)。
以上の堀三義の日誌には、当時のアイヌ・コタンの様子が活き活きと、しかし偏見も交えて記録されています。すでに「土人の家屋」「土人の居村」のことを掘は聞き知り、好奇心から見学に出かけたようです。8月11日の最初の訪問では、開拓使本庁から出発して、まず「偕楽園」に通りかかっています。これは明治4年に開拓使が設けた都市公園で、ヌㇷ゚サㇺメㇺという泉池を囲んで作られました。「深山幽渓に遁れし隠君子の居」、「清流閑林実に塵外にあり」と堀が讃えるように、木々に囲まれた水辺の場の美しい場所であったことが伺えます(湧き水が枯れてしまった今日の「偕楽園緑地」には、残念ながらその面影はありません)。
その後、「幽径を行くこと数百歩にして」コタンに到着しています。興味深いのは堀が「すり鉢と言える陶器をふせしがごとく」と形容し、イラストも描いているチセの形状です。また堀がこの日チセの中で会った老夫婦は誰だったのでしょうか。逆にこの夫婦は堀ら和人の訪問者をどう見ていたのでしょうか。
約1月後の二度目の訪問ではこのコタンを「琴似村」だと述べています。この時には村長の琴似又市と会って、雁皮(がんぴ:この場合はおそらく白樺の樹皮)をもらっています。