B-3 コトニ・コタン1:豊川重雄エカシの証言
コトニ川筋にどんなコタンがあったのか?それを明らかにする手がかりとしてまず豊川重雄エカシの証言を読んでみたいと思います。豊川さんの祖先がまさにコトニ川筋にあったコタンにいたからです。
豊川重雄さんは1931(昭和6)年石狩町生振に生まれました。父方の祖父は川合イエハル、母方の祖父は豊川アンノランで、川合イエハルの息子・川合正(まさ)が豊川家に婿養子に入ったため、豊川姓となっています。
また1876(明治9)年に対雁(現在の江別市)へと強制移住させられた樺太アイヌの受難を知ると、その歴史を調べ、1979(昭和54)年に江別市対雁墓地で執り行われた第1回・樺太アイヌ殉難者慰霊祭の実現に尽力されました。この樺太アイヌの歴史の調査は、豊川さんが代表を務める樺太アイヌ史研究会によって継続され、1992年の『対雁の碑』(北海道出版企画センター)の出版に結実します。
1982(昭和57)年には、札幌市豊平河畔でアシリチェプノミ(鮭を迎える神事)を復活させ、この年の第1回から2006年の第24回まで祭主を務めます。その翌年には札幌アイヌ文化協会を設立して、会長に就任。「石狩アイヌ」を名乗りながら、このように多岐にわたる活躍を続け、2015年に享年84歳で逝去されました。
豊川さんは自分の先祖が「サクシュコトニ」のコタンの出であると、ことあるごとに語っています。詳細については資料が確認できていないものもありますが、コトニ・コタンに関する歴史的証言としてここに再録いたします。
現代企画室編集部(編)1988『アイヌ肖像権裁判・全記録』現代企画室:131-2
豊川 私、豊川を名乗っています。豊川は石狩のアイヌです。私の父親はサクシュコトニです。
安田 そうしますと、あなたの先祖はコトニ(琴似)にいらっしゃったということになるんでしょうか。
豊川 私のおじいちゃんになる人[小田注:川合イエハル]は、サクシュコトニのアイヌです。
安田 コトニと言いますと、どこらあたりなんですか、現在の。
豊川 今の北大の正門へ行って、クラーク博士、今北大農学部のあるあの辺です。あそこです。
安田 そうすると、北大の構内にすんでいらっしゃったということになるんでしょうか。
豊川 そうです。
安田 いつごろまで、そちらにいらっしゃったんでしょうか。
豊川 明治の初期だと思います。
安田 そこには、どれくらいの戸数のコタンがあったんでしょうか。
豊川 七軒ぐらい[小田注:明治6年の地図では3軒]はあったと思います。
安田 いつごろまで、そこの場所には住んでいらっしゃったんですかね。
豊川 明治三年[小田注:資料未確認]と私思っております。
安田 そこから石狩町のほうに移動されたということになりますか。
豊川 そうです。
安田 その移動された理由というのは何だったんでしょうか。
豊川 北海道でも、札幌が開拓が早かったので、我々の先祖が自然にしもへ下がっていきました。
安田 その七戸のコタンはそうなってしまったんですか。
豊川 今現在、石狩の私のコタン[生振]に豊川と川合、あとの人は私の分かっている範囲では旭川、阿寒にもいます。
安田 そうすると、コトニのコタンというのは消滅してしまったわけですね。
豊川 そうです。
樺太アイヌ史研究会(編)1992『対雁の碑―樺太アイヌ強制移住の歴史』北海道出版企画センター:295
元々のコタンは、サクシュコトニといって、現在の北海道大学農学部のある辺りであった。
ところが、“開拓”と称して和人が次々に押し寄せてきたため、やむなく川下の石狩町生振にコタンを移したのである。それは明治三年頃[小田注:資料未確認、川合イエハルの生振移住は明治8年頃ではないかと推測される]だと聞いている。
飯部紀昭1995『アイヌ群像―民族の誇りに生きる』御茶の水書房:107
対雁はコレラなんかで四百人近い樺太アイヌが死んだ。狭い場所に集めて、ろくな予防もされなかったからだ。残った人たちは、対雁を悪魔の住むところと恐れて石狩川を下ってあちこちに住んだ。生振に生まれた石狩アイヌのオレと樺太アイヌはウタリ(同胞)だよ。
一九三一(昭和六)年、石狩管内石狩町生振のコタン(集落)で生まれた。五代前までの先祖の系譜[小田注:資料未確認]が残っているが、一八七一(明治四)年ごろまでは現在の北大農学部の辺りにコタンがつくられていた。北大から競馬場、琴似にかけてが石狩アイヌの聖地、サクシュコトニ。しかし札幌本府造成、和人による開拓のあおりを受けて茨戸太(ばらとぶと)や生振に移住させられた。上川地方にはいまもバラトやシノロを名乗るアイヌがいる。
父豊川正(まさ)は漁師。春はニシン、夏から秋はマス、サケを追い、漁場を転々とした。母方の祖父はアンノランといい、生振コタンの長老(エカシ)であった。アンノランの娘である母は子どものころはアイヌプリ(伝統的習慣)で育った。
豊川重雄1999「アイヌの伝統」『平成10年度普及啓発セミナー報告』財団法人アイヌ民族文化財団:185-198。
私の生まれたところは、石狩、今は石狩市ですが石狩郡石狩町大字生振の生まれです。私の父親は、サクシュコトニ、今の北海道大学の辺りに住んでいました。農学部、クラーク博士の像がある辺りにあったコタン(村)です。そこには10軒くらい[小田注:資料未確認]あったと思いますが明治6年頃[小田注:資料未確認]、札幌には早くから開拓の人が入ってきましたので、コタンが無くなりました。
(中略)私の父方の最初についた苗字は麻殻で、私が五代目です。それが麻殻から川合になりました。どうして変わったのか調べましたが、結局はわかりませんでした。
以上の証言で共通しているのは、豊川さんの父方の祖父がコトニ(「サクシュコトニ」といっている)のコタンの出身であり、明治3~6年頃石狩の生振に移住したという点です。ただしこの移住の時期とコタンを構成するチセの軒数は資料で裏付けられていません。「北大から競馬場、琴似にかけてが石狩アイヌの聖地、サクシュコトニ」という表現がとても印象的で、この石狩アイヌにとってコトニという土地がいかに重要であったかが伝わってきます。