B-6 コトニ・コタンの位置
琴似又市さんたちが暮らしたコタンはどこにあったのでしょうか。その位置を検証してみましょう。
コトニ・コタンの位置は今のところ、複数の証言や記録、古地図などを比較参照して推定するほかありません。豊川重雄エカシの証言(B-3)や堀三義の日誌(B-4)によると、現在の北大札幌キャンパス南側、それからさらにその南向こうにある偕楽園緑地の近辺にそのコタンがあったらしいことがうかがえます。
1875(明治8)~1880(明治13)年頃に作成されたと思われる、「琴似村」の戸籍簿も重要な手がかりを与えてくれます(『内館泰三筆記史料(八):人口資料)札幌市公文書館所蔵,『新札幌市史』第2巻 通史2に再録。
コトニ・コタンは開拓使の行政上、琴似村の一部であり、その第56・57・58番地がコタンの住民の家でした。琴似村第56番地に琴似又市さんが暮らしていたのです。
この琴似村が含まれる地図を、1873(明治6)年に飯島矩道と船越長善が作成しています。
この地図は上が南になっています。この地図のコトニ川筋の部分を拡大してみましょう。
左(東)側に碁盤の目が描かれ、大きい字で「本廰」とあります。この本庁を中心に札幌本府が気づかれました。その右下に「官エン」すなわち札幌官園が位置しています。中央部に横向きの文字で「琴似村」とあります。「本廰」・「札幌官園」と「琴似村」の間に川が描かれていますが、札幌官園の右(西)側を流れているのがサクㇱコトニ川、その隣が「マロンぺッ」、さらに西が「ホンコトニ」で、これら3本がコトニ川水系を構成する川です(「マロンぺッ」は、「セロンぺッ」の書き間違いと思われ、松浦武四郎の記録では「チェプンぺッ」とも称された川です:山田1965:54)。この「マロンぺッ」の文字の横をよく見てみましょう。「土人三戸」と書かれています。これがコトニ・コタンの三つのチセだと考えられます。さらに目をずっと右(西)に移すと、「土人七戸」とあります。こちらはハッサム・コタンだと思われます。
同じ1873(明治6)年に、開拓使測量課が作成した地図は、より精密な測量に基づいていると思われます。
こちらは上が北になっています。やはり「本廰」近辺を拡大してみましょう。
本庁の北西方向に「偕楽園」があります。偕楽園の東に流れるのがサクㇱコトニ川です。偕楽園の西、青で囲った中に三つの小さい四角形が認められるでしょう。上の「札幌郡西部図」の「土人三戸」とほぼ同じ位置です。これは家だと考えられますが、街道に面していないことから和人の入植者のものとは思われません(加藤2017b) 。この三戸の家はセロンペッ(チェプンぺッ)沿いにあります。
この三戸が琴似又市らの暮らしていたチセであり、コトニ・コタンの1863(明治6)年当時の位置を示すと推測されます。ではコトニ・コタンは現在ではどこに当たるのでしょうか。それを検証したのが地質学者の宮坂省吾氏((北海道総合地質学研究センター)です。宮坂氏は「北海道札幌之図」に記された条丁目の情報から、北8条通りと西11丁目通りの交差する所がコトニ・コタンの位置であり、それは現在の北海道大学農学部の敷地(石山通を挟んだ北大の飛び地、「北大インターナショナルハウス」の南側)に当たると推定しています。
なお、このコトニ・コタン推定地へは、2021年まで北大のメイン・キャンパスから陸橋で石山通を越えて行くことができましたが。その陸橋は取り壊されました。そのため北側へと石山通を進んで横断歩道を渡ってアクセスするしかありません。記録として陸橋と、それを下った所にあるコトニ・コタン跡推定地の写真を掲載しておきます。
実際にここに行ってみると、西側のチェプンぺッや周囲の低湿地に対して、高台となっており、浸水を避けてコタンを構えることができた場所であろうことがわかります。
参照文献
加藤好男2017a『19世紀末のサッポロ・イシカリのアイヌ民族』サッポロ堂書店。
加藤好男2017b「『19世紀末のサッポロ・イシカリのアイヌ民族』に於けるサクシュコトニのコタンの位置についての補論」(弊書、出版記念会ミニシンポジウムの小講演配布資料、2017,8,24)、私家版。
宮坂省吾2021「北大キャンパスの古い川」私家版。
山田秀三1965『札幌のアイヌ地名を尋ねて』楡書房。