C-8 古河講堂
北海道大学の正門から道なりに進むと、サクㇱコトニ川の復元水路のある中央ローンが見えてきます。その北向かいに、白壁の洋館が建っています。1909(明治42)年に竣工したこの建物の名称は古河講堂です。
この名称は近代日本の歴史と深く関わっています。明治時代に、栃木県の足尾銅山から排出される有毒物質が周辺の山野や、渡良瀬川下流を汚染し環境と人体への被害を出しました。日本最初の公害事件と呼ばれる足尾銅山鉱毒事件です。その原因企業・古河財閥が、世間の批判をかわすために国に寄付したお金で建てられたために「古河講堂」というのです(詳しくは小田2019)。
さて、この建物の一室から1995年に6体の頭骨が発見されました。新聞紙にくるまれ、段ボール箱に入れられたまま放置されていたのでした。1体には「韓国東学党」と墨で書かれ、3体には「オタスの杜風葬オロッコ」と貼り紙され、残る2体にはそれぞれ「日本男子20才」と「寄贈頭骨出土地不明」と貼り紙がされていました。この建物を当時管理していた北大文学部は、遺骨に対するこのような扱いは、人間の尊厳を冒瀆するものと認め、「古河講堂「旧標本庫」人骨問題調査委員会」を立ち上げて、調査に着手すると共に、遺骨の関係者との話し合いを進めました(概略については井上2019、詳細は下記にリンクする3冊の報告書を参照)。
調査の結果浮かび上がってきたのは、これらの遺骨が、近代日本が推し進め、そして札幌農学校とその後身である北海道帝国大学が関与した植民地主義と関わりがあるという事実でした。「韓国東学党」と書かれた遺骨は、日本による朝鮮半島の植民地支配に抵抗し、殺害された東学党のリーダーのものであり、その「収集」に札幌農学校の卒業生が関与した可能性が明らかになりました(井上2013をも参照)。また「オタスの杜風葬オロッコ」は、やはり日本が日露戦争以後植民地支配したサハリンの先住民族ウィルタのものでした。
これら由来の明らかになった遺骨を、北大文学部は謝罪と共に故郷の地へと返還しました。例えば1998年5月31日に、韓国で行われた「鎮魂式」で、当時の灰谷慶三文学部長は次の「お詫びの言葉」を述べています(『報告書III』31ページ)。
主に19世紀後半から20世紀前半にかけて、研究目的で持ち出された遺骨を、故地へと戻すことを「repatriation(返還/帰還)」といいます。それは20世紀後半から世界的に広まり、脱植民地化の重要な一側面となっています。
20世紀の最後の10年に、古河講堂の一室で発見された遺骨は、はからずも日本におけるrepatriationの先行例となりました。この経験をどう評価し、例えば北大医学部のアイヌ遺骨問題などにどう活かしていくのかが問われています。その際に、上述の文学部長による率直な謝罪と、自らの組織が関わる植民地支配への批判的な認識は、踏まえるべき里程標となるのではないでしょうか。
古河講堂での遺骨の発見からすでに30年近くが経過し、この建物は文学部の管理から離れ、今の学生たちのみならず、その間に赴任した教職員にもこの事件についてほとんど知らされてはいません。忘却と風化が進んでいると言えます。この現状の中で、『報告書III』に記された次の言葉を読むとき、文学研究院として記憶の継承が問われているとの思いを新たにします。
いうまでもなく言語は文化と結びついており、文化は歴史の中から生まれる。その民族の文化と、歩んで来た苦難の歴史を知ることは、若い研究者にとっても、これからはますます重要であろう。1995年7月に古河講堂で人骨が発見された事件を単なる「過去のできごと」として風化させないこと、戦前の帝国大学がサハリンで為したことを忘却しないこと、は我々が肝に銘ずべきである。(『報告書III』57ページ)
記憶の継承のために、北大文学部調査委員会が編集した3冊の報告書の電子版へのリンクを、以下に掲載いたします。
『古河講堂「旧標本庫」人骨問題報告書』(1997年・平成9年)
『古河講堂「旧標本庫」人骨問題報告書II』(2004年・平成16年)
『古河講堂「旧標本庫」人骨問題報告書III』(2010年・平成22年)
参照文献
井上勝生2019「古河講堂「旧標本庫」人骨放置事件」北大ACMプロジェクト(編)『北海道大学もうひとつのキャンパスマップ:隠された風景を見る、消された声を聞く』寿郎社:96-102。
井上勝生2013『明治日本の植民地支配:北海道から朝鮮へ』岩波書店。
小田博志2019「古河講堂と足尾銅山鉱毒事件」北大ACMプロジェクト(編)『北海道大学もうひとつのキャンパスマップ:隠された風景を見る、消された声を聞く』寿郎社:89₋95。