C-7 北大アイヌ納骨堂
北海道大学札幌キャンパスにアイヌ納骨堂という施設があります。医学部裏の教職員駐車場の隅にひっそりとあるこの建物は、北大の公式のキャンパスマップには記されておらず、北大の学生や教職員でも実際に見たことのある人は少ないようです。
ここには1984年の建立以来、千体を越えるアイヌの遺骨が保管されてきました。2019年11月にはその多くが白老の民族共生象徴空間の慰霊施設に移されましたが、その後にも、返還請求の出されている樺太アイヌの遺骨などが残されています。
千体を越える遺骨と言われても、ピンと来ないかもしれません。しかしその一人一人に人生があり、顔があり、名前があり、またそのかけがえのない故人を葬った遺族とコタンの仲間がいました。この問題を考えるうえで、これがまず基本的に大事なことです。
自分の家族の遺骨がそのように扱われたなら、と想像してみましょう。そうした遺骨の子孫の一人である土橋芳美さんは、長編詩『痛みのペンリウク』の中でこう言っています。
「想像してみてください。これが自分の骨だったならと。あるいは父や母、祖父母のものであったならと。人格を持ち、この地上で一定期間私たちと同じような「人生」を持った人の骨なのですよ。」(土橋2016:143)
そして、なぜここにこのような施設があるのか、何のために、どのようにそんなにも多くの遺骨が集められたのか、その後の大学の対応はどうなのかを理解し、どうすればよいのかを考えましょう。一言でいうと、この施設は北大の倫理性を問う負の遺産です。
歴史をさかのぼると、「⇒C-6あるアイヌ遺骨の盗掘」で見たように、19世紀後半からヨーロッパの研究者がきそって海外から先住民族の遺骨を取り寄せて、人種主義的な前提の研究の標本としました。コトニ・コタンの遺骨のように、盗掘も多く行われました。
その後こうした先住民族の人骨研究を、ヨーロッパに留学した日本の研究者も行うようになり、東大の小金井良精、京大の清野謙次が北海道、樺太、千島列島においてアイヌ民族の遺骨を「収集」しました。1930年代以降、その流れに加わったのが北大医学部解剖学教室の山崎春雄と児玉作左衛門の両教授でした(詳しくは植木2017)。1970年代以降、従来の人骨研究が下火になると、集められた膨大なアイヌ遺骨は、その故郷の地域に返還されることなく、医学部の一室に置かれたままとなっていました。
このことを問題にしたのがアイヌ民族の海馬沢博さんでした。海馬沢さんは1980年に北大学長に書簡を送り、医学部に収蔵されたアイヌ遺骨に関する説明と返還を求めました。このことを知った北海道ウタリ協会(当時)の理事ら6名が医学部の収蔵室を訪れました。頭骨が尊厳なく並べられた実態を目の当たりにして、旭川からきた杉村京子さんは「床にひざまずき、許してください、許してください、最後は声を詰まらせながら、三度叫んだ」といいます(小川2015:127)。
この後、北海道ウタリ協会と北大との間で交渉が行われ、その結果1984年に「骨を発掘した実態の説明も、謝罪も無いまま」(小川2015:127)このアイヌ納骨堂が建立され、この年から北海道ウタリ協会(後には北海道アイヌ協会)主催でイチャルパ(供養式)が行われるようになりました。
北大の研究者が遺骨の「収集」時に作成したはずの「アイヌ人骨台帳」の開示を、2008年に小川隆吉さんが行いました。開示された文書は、小川さんをサポートするために結成された「北大開示文書研究会」のウェブサイトで公開されています:
その文書で明らかになったことの1つが、小川隆吉さんの故郷の浦河町杵臼から持ち出された遺骨があるということでした。同じ地域の出身の城野口ユリさんは、お母さんから遺言のように、先祖の遺骨が北大の研究者に持って行かれたので取り戻すようにと聞かされていました。この2人が2012年2月に自分たちの先祖の遺骨の返還を求めて、事前の連絡の上で北大総長との面談に訪れると、事務職員によって面会が拒絶されました(その時の模様を収めた動画が次でご覧になれます)。
北大には対話の姿勢がないと感じた城野口さんたちは2012年9月に北大を相手取って、遺骨の返還を求める裁判を札幌地裁に起こしました。裁判長は原告が高齢であることを考慮して、和解を勧告し、その結果2016年3月に和解が成立、同年7月に12箱分の遺骨が杵臼に帰還し、3日かけてカムイノミとイチャルパが執り行われ、杵臼共同墓地に再埋葬されました。しかし、原告の1人城野口ユリさんは病気のため前年に亡くなっており、遺骨の故郷への帰還を見届けることはかないませんでした。
北大がこの翌年に刊行したのが次の報告書です。
北海道大学(編)2013『北海道大学医学部アイヌ人骨収蔵経緯に関する調査報告書』
さらにその5年後には追録が作成されました。
北海道大学(編)2018『北海道大学医学部アイヌ人骨収蔵経緯に関する調査報告書(追録)』
この報告書は、北大内部の資料を検討して書かれたもので、重要な文献ではありますが、私はここに次の2つの大切な点が欠けていると考えています。
(1) 「収蔵経緯に関する調査」としながら、北大側の資料しか参照せず、他方の当事者である遺骨が持ち去られたアイヌ民族の側の調査がなされていないこと
(2) 倫理面での検証と総括がなされていないこと
(1)に関しては、城野口ユリさんの法廷での意見陳述(北大開示文書研究会ウェブサイト-「第1回口頭弁論における城野口ユリさんの意見陳述書(全文)」)だけではなく、平取町二風谷の萱野茂さんによる、アイヌ肖像権裁判における東京地裁での次の証言も記録に残されています。
昭和二十二、三年頃に、私の目の前、いつも子供が走って行ける場所、そういうとこにあった墓を掘っていったのも、見てよく知っています。
掘りに来たのは、はっきり言いますけど児玉作左衛門先生。その時私の父はまだ四十代のほんとに酒の好きな男だから、そういうとこへ行けば酒の一っぱいも飲めるし、日当も多少もらえたらしいんですけども、絶対に近寄りませんでした。父は、恐ろしいコトだと、墓暴くというのは、アイヌにとってこんなおそろしいことはない、絶対にそこへ行ってはいけませんと。
(その児玉作左衛門が墳墓を発掘したことについては、もちろん周囲のアイヌの人たちの承諾というものはなかったわけですね。)
まったくありません。
(現代企画室編集部1988:85-6)
アイヌ遺骨の問題の当事者は、先祖の遺骨が持ち去られた子孫のはずです。「収蔵経緯」を明らかにするのであれば、その当事者である子孫や地域のアイヌ民族の声を聴くことが必要不可欠のはずです。これがなされていません。
(2)の倫理とは、他者の立場に立って、自らの行動を規定するということです。ですから、(1)のアイヌの当事者の声を聴くということとも関連があります。かつては研究者の好奇心を満たすために、その「対象」とされる人々を傷つけるような研究が行われたため、その反省の上で、意識し、明確にされるようになったのか「研究倫理」です。この研究倫理に照らして、北大の研究者によるアイヌ遺骨の「収蔵」と研究がどうであったのかの検証が重要であり、それをしてこそ、この負の遺産を将来の研究のあり方を改善するために活かせるようになるはずですが、この報告書ではそれはなされていません。
このときに、検証の焦点になってくるのが、児玉作左衛門がアイヌ遺骨を「収蔵」する際に依拠した「人骨発掘発見ニ関スル規程」です。これは「北海道庁令第83号」として昭和9年10月19日に発令されたものです。
これを読むと、人骨を発掘する際に、承諾を得るのは「発掘地ノ所有者管理者又ハ占有者」となっています。当該の人骨の遺族が、その墓地の「所有者管理者又ハ占有者」ではない場合には、遺族の承諾がなくとも発掘ができるということになります。またここでは研究者が許可を求めたり、報告をしたりする相手は北海道庁長官であり、その人骨の遺族ではありません。これらのことから、遺族とコタンの住民の承諾を条件としないこの規程は、研究倫理の観点からは重大な欠落があり、これに基づいて「収蔵」された遺骨は倫理的な手続きを踏んでいない、という結論にいたります。
「合法」ではあっても「非倫理的」な遺骨の「収蔵」がなされ得る背景の1つにこの規程があったのです。(「合法」という場合の法が、誰が定めたものかも留意しなくてはなりません。植民者の側が、先住民族との非対称的な権力関係の中で一方的に定めた法であれば、先住民族にとってその「法」は不当な抑圧をもたらす「不法な法」になりえます。)また、この規程の成立過程や、実際の運用について、倫理的な観点からの検証がされなくてはならないでしょう。こうした倫理面での検証と総括を行った上で、問題があると明らかになった場合には、やはり大学としての謝罪が求められます。その謝罪は、祖先の遺骨が奪われ、研究の「対象」にされるという痛みを抱えた当事者向けてなされる、心からの謝罪であるべきです。
さらに今日の北大が行わなければならないのは、遺骨の返還――その子孫にとっては先祖の帰還――に向けての積極的な努力です。非倫理的に「収蔵」された遺骨が返還されないままであることは、現在でも非倫理的な状況が継続しているということになります。また遺骨は掘り起こされた元の故郷の土に戻されるのが、「返還/帰還(repatriation)」のあるべき姿でしょう。静内(現新ひだか町)の葛野辰次郎エカシは「われわらの体は母なる大地からの借り物だ」と言っていたといいます。それを受けて、息子の葛野次雄さんはこう述べています。
埋葬は、その借り物を故郷の大地に返すこと。遺骨を故郷の土地に戻すということは、そうした生命観、死生観、つまりアイヌ文化の根本を取り戻すことなのです。(北海道新聞朝刊2017年3月22日、飯島秀明記者署名記事)
大学の先達が植民地状況の中で行った、アイヌ民族の遺骨の収奪。古いものは90年近く経っており、その解決はたやすいことではありません。しかし、当事者である地域のアイヌの方々に説明をし、その人たちと真摯に対話をすることを通して、遺骨の帰還と、大学の、また大学と先住民族の関係の脱植民地化が徐々に実現していくのではないでしょうか。
参照文献
植木哲也2017『新版 学問の暴力』春風社。
小川隆吉・瀧澤正(構成)2015『おれのウチャシクマ:あるアイヌの戦後史』寿郎社。
現代企画室編集部(編)1988『アイヌ肖像権裁判・全記録』現代企画室。
土橋芳美2017『痛みのペンリウク:囚われのアイヌ人骨』草風館。
北大開示文書研究会(編著)2016『アイヌの遺骨はコタンの土へ:北大に対する遺骨返還請求と先住権』緑風出版。