F ハッサム・コタン
「ハッサム」は 「発寒」と漢字表記されます。それにはどんな語源があるのでしょうか。山田秀三氏は、松浦武四郎の『後方羊蹄日誌』にある「桜鳥のような鳥が多い」という記載に依拠して、桜鳥の川という語源を採用しています(山田2000:22)。「発寒」とはだいぶ印象が違いますね。このハッサム川のほとりにあったのがハッサム・コタンです。ここは開拓使による恣意的な地名の移動によって、琴似に取り込まれてしまい、現在の住所表記では札幌市西区琴似4条1丁目付近に当たると考えられます(加藤2017:54)。
ハッサム・コタンは松浦武四郎が訪れる以前から存在していました。上掲の1874(明治7)年の地図には「土人二十三番」から「二十七番」までの表記があります(札幌市教育委員会1989)。1877(明治10)年の発寒村戸籍簿には「二十八番」も加わっています(加藤2017:55)。さらに明治11年の地価創定請書では、ハッサム・コタンの3戸に1876(明治9年)耕地の割り渡しがなされていますが(札幌市教育委員会1986)、翌年には官有地第三種に編入されています(加藤2017:56)。
このコタンから、開拓使仮学校附属北海道土人教育所・官園に次の4名が送られています。クソマウシ(木杣宇七)さん、イワオクテ(能登岩次郎)さん、ウテモンガ(能登もん)さん、矢間徳三郎(ヤマトコ)さん(乙名コモンタの息子)。このうちイワオクテとウテモンガの若い夫婦は北海道土人教育所で学びました。この二人の「東京留学」中の1873(明治6)年に生まれたのが能登酉雄さんです。酉雄さんの語りを高倉新一郎が詳しく記録していますが(高倉1980)、幼かったためかハッサム・コタンのことはそこにはあまり出てきません。それは酉雄さんが両親と共に、1879(明治12)年にこのコタンを離れて、石狩河口の篠路村茨戸に移っています。この年にハッサム・コタンの他の住人もいなくなったと思われます(加藤2017:85)。
参照文献
加藤好男2017『19世紀後半のイシカリ・サッポロのアイヌ民族』サッポロ堂書店
札幌市教育委員会(編)1986『新札幌市史 第7巻史料編』北海道新聞社
札幌市教育委員会(編)1989『新札幌市史 第1巻』北海道新聞社。
高倉新一郎1980「パンナグルものがたり:能登酉雄談話聞書」『新版 郷土と開拓』(北方歴史文化叢書)北海道出版企画センター:135-156。
山田秀三2000『北海道の地名』(アイヌ語地名の研究 別巻)草風館。