ペルー アヤクチョ

武力紛争で奪われた家族の記憶

F-2 被害の諸側面

多くの子ども達が犠牲になった
1986年10月26日、センデロ・ルミノソのメンバーによって裏切りの罪で告発され殺害された、アヤクチョ州ビルカスワマン郡ヘネラル・コルドバ校の生徒、ルイス・スルカ・メンドーサの通夜。(リマ 2003年8月、写真 アビリオ・アロヨ)

 犠牲者のほとんどが世帯主であったため、必然的に多くの子ども達が紛争で親を失うこととなった。同様に、センデロ・ルミノソや軍が行った無差別殺戮の直接の犠牲になった子ども達も数多く存在する。

 多くの子ども達が、親兄弟に対する暴力的な殺害や拷問を目の当たりにし、トラウマを負っている。(真実和解委員会『暴力の過去と平和の未来:暴力の20年 1980-2000』リマ、2003年)

女性は強制徴用の犠牲者となった

 20年にも及んだ紛争による暴力が進行する過程で、とりわけアンデスやアシャニンカにルーツを持つ女性たちが、最も深刻な人権侵害の被害者となり目撃者となった。

 中には、暴力の波に抗いきれずにセンデロ・ルミノソやMRTAなどの武装組織の党員となる選択をした女性達もいた。他方、多くの女性は、戦乱を生き延びるため、家族やコミュニティの命と連帯を守るための戦略を提案し、構築し、実施するための能力を身につけていった。

 概して、センデロ・ルミノソによる強制徴用の犠牲となった女性達は非常に若く、その65%が10歳から19歳だった。(『国内武力紛争における女性の記憶』メルセデス・クリソストモ・メサ真実和解委員会、リマ、2004年5月)

女性達は二つの炎に挟まれた

 女性達は、センデロ・ルミノソの暴力による犠牲となっただけでなく、軍隊からもセンデロに協力したとの濡れ衣を着せられて攻撃を加えられた。

 同様に、センデロ・ルミノソや軍隊の手によって、夫、息子、父親、兄弟などの親族が殺害、強制失踪の被害にあうことで多くの苦しみを受けた。

 女性達は、多くの人権侵害の犠牲者となった。センデロ・ルミノソに所属していた女性、息子、兄弟、父親、夫がセンデロ・ルミノソと関係していた女性は、拷問や性的暴力を受けただけでなく、超法規的に処刑されたり、行方不明になる者もいた。(「国内武力紛争における女性に対する暴力 Wamicuna yuyaninku 歴史を繰り返さないための教訓」APRODEH、2005年4月)

 1983年3月、センデロ・ルミノソのリーダー達が、度重なる抑圧に対して我慢の限界に達していたルカナマルカ村の村人達による攻撃を受けた。その後、センデロ・ルミノソは、村人達に恐ろしい報復を行った。4月3日、約250人が暮らすルカナマルカ村に地獄が訪れた。センデロ達は、集落をしらみつぶしに回って、たった1日で69名もの老若男女を鉈で殺害した。(「恐怖時代のペルー」 カレタス誌、リマ、2003年)

ソコス村虐殺事件による犠牲者の発掘作業中、婚約者の死を悼む若い農民女性。1983年11月13日、旧民兵の治安部隊が村の祭に参加していた32名の農民を殺害した。
常に狙われていた

 センデロ・ルミノソとMRTAによって繰り返された暴力と、軍隊や警察、傭兵さらには農民自警団による無差別な弾圧により、多くの農村共同体が破壊され、家族は離散してしまった。その結果、多くの住民の肉体的・精神的状態に著しい悪影響をもたらした。

 多くの個人や村々が、センデロ・ルミノソや軍隊によるいわれのない攻撃の標的となった。彼らの多くはまったくの無実であるのにも関わらず、暴力を恐れて身を潜めて生活しなければならなかったり、冤罪による刑務所での生活を余儀なくされた。国内紛争による避難民、ならび紛争沈静化後の帰還民は、主に土地の所有権を失ったり、村役場の襲撃や焼き討ちなどにより戸籍データを焼失しアイデンティティの喪失にさえさらされる事例も生じている。また、武力紛争の当該地の出身というだけで、テロリストとしてのスティグマや差別を受け、今現在でも多くの人が苦しんでいる。(『女性たちの国内武力紛争の記憶』、メルセデス・クリソストモ・メザ、真実和解委員会、リマ、2004年5月)

ペルーの地域的多様性と武力紛争

 ペルー全土に影響を及ぼした暴力は、農村部と都市部において異なった様相を呈しただけでなく、沿岸部、アンデス山岳部、熱帯雨林地域といったペルー特有の多様な地理的環境の違いによってもその在り方は異なっていた。被害が限定的な地域もあれば、多くの破壊活動や犠牲者が生じ、長年にわたって恐怖や苦しみが継続した地域もあった。その地域的特徴から、武装勢力が発するメッセージや戦略を他の地域より容易に受け入れた地域もある。

 高地農村地域(シエラ)、海岸都市地域(コスタ)、熱帯雨林地域(セルバ)という自然環境も生活様式も異なる3つの地域において、武装勢力はそれぞれに異なる戦略を取っていたことが確認できる。紛争は、異なった地域で若干の時間のずれを生じながら継続していった。

 アンデス山岳部では、村々が孤立しており、通信手段もほとんど存在しなかったため、センデロ・ルミノソはそれら孤立した村落全体をひとつずつ支配していくという戦略を取った。さらに、センデロは各村に人民委員会なるものを組織し、既存の行政機構に替わって公然と活動を行っていた。軍は、人民委員会に属する村人を特定した上で、暴力的な方法で対処していった。村人達は、2つの炎にその身を焼かれていたと言える。軍とセンデロ・ルミノソ、どちらの側についても処罰されたり、強制連行された後行方不明になるなどした。農民達が自警団を組織するようになると、軍隊と自警団の共闘により、センデロ・ルミノソを撃退する地域も出てきた。

都市部の被害

 都市における様相は、農村とは異なっていた。リマ郊外の低所得者居住区では、センデロ・ルミノソは各居住区の自治会員達をコントロールすることでその支配を強めて行った。

 また、いくつかの労働組合にも潜入を試みたが、組織力の高い労働組合にセンデロは支配を及ぼすことができなかった。他方、大学においては、イデオロギー戦略を通じて学生達の支持を募り、比較的容易に政治的影響力を及ぼすことができた。

熱帯雨林地域の被害

 軍隊にとって、人口も少なく、広大な密林を抱えたアンデス東部の熱帯雨林地域をコントロールすることは非常に困難であった。この地域において、センデロ・ルミノソは麻薬密売人らから容易に資金を獲得することができた。センデロは、コカの葉の栽培地域を軍や密売人から守り、コカの葉やペーストの価格を統制し、密売人から税を徴収するなどして地域のコカ栽培農家より支持を得ることに成功した。

 センデロ・ルミノソは、先住民族の人権を著しく侵害した。地域に暮らす先住民族に無償労働を強要し、若い男性達を徴兵した。さらに、女性達を強姦し、多くの病気や栄養失調に苦しむ人々を放置して死なせた。特に、アシャニンカ族は甚大な被害を受け、多くの人々が命を失った。(『真実和解委員会最終報告書 第1部 第1巻 過程、事実、被害』)

2022年03月20日更新