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C-2 偕楽園

 1869(明治2)年に島判官によって開始された、「札幌本府」建設は、翌年の島の判官解任によって中断されていました。それが1871(明治4)年になると、開拓使が函館からサッポロに移されたことを契機に一気に動き出します。その一環として設置されたのが、日本最初の都市公園とされる「偕楽園」です。1875(明治8)年に堀三義が訪れて讃嘆したあの公園です(B-4 コトニ・コタン2:堀三義の日誌)。

 ヌㇷ゚サㇺメㇺ(野の傍らの泉池)を囲むように作られた、この公園の当時の姿が伺えるのが下の2枚の図です。上の図の方の字が読みやすいでしょう。北大北方資料室によると、下は上の原図と思われるとのことです。

偕楽園図(明治15年 『北海道志』掲載)
偕楽園図(明治15年ごろ 北大北方資料室蔵)

 ここには、池、鮭卵孵化場、花室、屯田兵招魂碑、生徒館、製物場、博物館属舎、精華亭、競馬場などの他に、右側に「土人家」が描かれています。これが長らくコトニ・コタンの位置だとされてきました。しかしこれは、谷本晃久氏の調査で、1879(明治12)年7月に香港総督ヘネシー卿が視察に訪れるというので、開拓使が対雁(札幌市近郊、現在の江別市)の樺太アイヌを呼び寄せて作らせた復元家屋であることが明らかになっています(谷本2018)。精華亭とは、1880(明治13)年に建設された開拓使の貴賓接待場で、翌年、明治天皇の休憩場所として利用されました。1881(明治14)年9月1日には、対雁から連れてこられた樺太アイヌが、この精華亭において明治天皇の前で踊りを披露させられています。

 この偕楽園とその付属施設は、明治初期における北海道アイヌ、樺太アイヌ、開拓使、さらにはこれから述べていくようにヨーロッパの研究者によるアイヌ遺骨の盗掘の舞台ともなるコンタクト・ゾーン(接触領域)であったといえますが、現在ではヌㇷ゚サㇺメㇺの水は枯れ、宅地に囲まれて、往時の面影はなく、ひっそりとした緑地となって残っています。しかし実際に訪れてみると、水の気配を感じるのは私だけでしょうか。

偕楽園緑地(2017年小田撮影)

参照文献
谷本晃久2018「近代初頭における札幌本府膝下のアイヌ集落をめぐって : 「琴似又市所有地」の地理的布置再考」『北方人文研究』11: 95-109。

2022年03月20日更新
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