ペルー アヤクチョ

武力紛争で奪われた家族の記憶

B-6 マルシアーノクラウディオチュキさん

犠牲者
マルシアーノ・クラウディオ・チュキさん
マルティン アルカディオ・ゴンザレス・ロハスさん
フリア・チンキージョ・ミランダさん
サンティアゴ・ゴンザレス・チンキージョさん
証言者
エレーナ・ゴンサレス・チンキージョさん

マルシアーノ・クラウディオ・チュキさん(夫)

 1979年にウアマンガで撮影されたこの写真は、マルシアーノが25歳のときのものである。

 マルシアーノ・クラウディオは、小商いで生計を立てており、スポーツが大好きだった。

 1983年4月4日、ルカナマルカの村人達は、同村で起こった虐殺事件の犯人を探して、兵士達と共にエスピーテ村にやってきた。村人のほとんどは恐怖のあまり逃げ出したが、マルシアーノの家族は逃げなかった。すると、20人近くの兵士達がやってきて、食事を作るよう要求し1泊した後去っていった。兵士達は、家に併設する雑貨屋の商品も略奪した。

 1983年4月9日、エスピーテ村は軍のヘリコプター3機による爆撃を受けた。同年4月29日、サッカーの観戦に出かけたマルシアーノ・クラウディオ・チュキは、翌日滝の近くで遺体となって発見された。マルシアーノを殺したのが兵士達なのか、ルカナマルカの村人なのか、それともテロリストなのかは不明である。その後、妻のエレーナは家も商いも家族も捨てて、3人の子どもと弟のサンティアゴ(19歳)、そしてお腹の中の子どもと共にウアマンガへと逃れた。エレーナは1983年7月にウアマンガの借家にて出産したが、貧しくて食事も充分に摂れない状態であった。その後、エスピーテ村にある実家も略奪にあった。

 エレーナは1990年にエスピーテに戻った際、破壊された実家の瓦礫の中からこの写真を見つけた。

マルティン・アルカディオ・ゴンザレス・ロハスさん(父)、フリア・チンキージョ・ミランダさん (母)、サンティアゴ・ゴンザレス・チンキージョさん(弟)

 サンティアゴは、しばらくの間ウアマンガへ避難していたが、街の生活にも馴染めず、両親に会いたくなってビルカンチョス区のエスピーテ村に戻った。 サンティアゴは、初等教育しか終えていなかったが、エスピーテではテロの影響で授業がなかったため中学校で学ぶことができなかった。10月27日、サンティアゴと母フリア・チンキージョ・ミランダ、そして父マルティン・ゴンザレス・ロハスの3人は、他の村人達と共にトトスの駐屯地へと連行された。

 エレーナがウアマンガからパラスの市に行ったとき、妹のネリーが両親と弟サンティアゴが軍に連れ去られたことを泣きながら話した。

 1984年、サンティアゴが兵士に扮して村をガイドさせられていたという知らせが届いた。サンティアゴは、兵士に扮して二度エスピーテに戻ってきていた。エレーナもパラスで軍に拘束され、死の脅迫も受けていたという。「どこを探し歩けばいいのか、まったくわからなかった」。

⇒証言(エレナ・ゴンサレス・チンキージョ)

2022年03月22日更新