A-2 サッポロ - 豊平川
札幌に和人以外の人が住んでいたことの手がかりは、やはり豊平橋のあたりで見つかります。この橋のたもとには下の看板が立っています。
この看板を読んでみましょう。
豊平川の名の由来
昔の豊平川は「サッポロ」と呼ばれていましたが、明治になってから豊平川と呼ばれるようになりました。古い記録による「豊平」は「トイピラ」とか「トゥイピラ」と記されており、「トゥイ・ピラ(崩れる崖)」や「トゥイェ・ピラ((川の水が)崩す崖)」などの説が考えられています。
ここからわかることのひとつは、豊平川は本来「サッポロ」という名前だった、ということです。ですからこれからは「豊平川」とその流域を「サッポロ」と記すようにしたいと思います。また「豊平」は川の名前ではなくて、その流域の崩れやすい場所を表す地名であることもわかります。その「トゥイピラ」を和人が「豊平」と漢字表記して、この辺りの村の名前にし、さらに川の名前に流用したのです。
この看板の説明で欠けているのは、誰が「サッポロ」と呼び「トゥイピラ」と呼んでいたのか、の主語です。「サッポロ」も「トゥイピラ」もアイヌ語地名であり、それを使っていたのがアイヌ民族であることがどうしたわけか、開発局が設置したこの看板には記されていません。
明治の初期のこの辺りの風景はどのようなものだったのでしょうか。古い地図にその時代を知る手がかりがあります。
この地図には「高見沢権之丞明治八歳亥ノ六月六十一歳ノ筆写」と書かれています。現在の豊平橋の部分を拡大すると次のようになっています。
そこには橋はなく、吉田茂八を示す「モ八」、志村鐡一を示す「鉄一」の文字が彼らの家と共に書かれています。
この地図の原図と思われるのがこれです。
「明治二巳歳十一月迄札幌之図」(明治2年11月までの札幌の図)というタイトルで、高見沢権之丞(ごんのじょう)なる人物が描いています。開拓判官・島義勇の命で、高見沢は明治2年11月に函館からサッポロに移り、開拓使営繕掛手代として土木・建設工事の指揮を執るとともに、こうした記録や絵図を残しました。この図からは、「開拓」が始まる前のサッポロの様子を知ることができる、ということになります。
これよりも見やすいのはその模写である下の地図です。
原図と模写の中心部分を拡大して見てみましょう。
よく見てみると、左端に川を挟んで「茂八」と「鉄一」の文字が認められるでしょう。そして注目したいのが、右端の赤く囲まれた部分です。上下逆に「土人」と書かれています。当時、アイヌ民族はそのように称されていましたが、差別的なので今では使用されていません。サッポロ(豊平川)が分流して、伏籠川として流れていました。その河畔にアイヌ民族が住んでいたことをこの図は記しています。これは「フシコサッポロ・コタン」と思われます。明治2年の時点で、サッポロにアイヌ民族が暮らしていたのです。
もうひとつ注目してほしいのが、上の全体図(明治二巳歳十一月迄札幌之図)の方の右上に「シャクシコトニ道」と書かれていることです。「シャクシコトニ(もしくはサクㇱコトニ)」とは川の名前で、その付近にも当時「コトニ・コタン」があったことが確認されています。