A-1 豊平橋
札幌市民にとってなじみの国道36号線(通称サブロク)は、札幌中心部から千歳をつなぐ幹線道路です。この36号線が豊平川を越える所に豊平橋がかかっています。この豊平橋から時を超える旅を始めましょう。
豊平川に最初の橋がかけられたのは1871(明治4)年のことです。それから洪水にながされたり、老朽化したりして幾度もかけかえられて現在の橋にいたります。橋ができるまでは船で渡っていました。
豊平橋の両側に石碑が立っています。西側にあるのが吉田茂八の碑です。
その碑文を見てみましょう。
吉田茂八は南部に生まれ安政二年亀谷丑太郎に従い渡道し 同四年石狩調役荒井金助の命により豊平川右岸の渡守志村鉄一の話相手として左岸の渡守となり札幌開拓に寄与した先住者である 資性温厚にして豪胆 狩猟を得意とし後年創成川の南三条より南六条に至る間の掘割工事を請負う これを吉田堀とも言う 地域住民吉田翁の功績を讃え後世に伝えるべく この碑を建立する
昭和五十六年七月二十一日 吉田茂八碑顕彰保存会
橋を東へと渡ったところに別の碑があります。志村鐵一の碑です。
そこにはこう書かれています。
札幌開祖 志村鐡一碑 由来の碑
氏は信州の剣客にて石狩調役荒井金助氏の招きに応じ安政六(一八五九)年には永住していた。幕命をうけて豊平川渡し守となり駅逓を兼ねる。この地より約百二十米川下が氏の住宅の遺跡なり。
この碑は大正十年当時の北海道庁河野常吉氏が発起人代表となりその場所に建立されたものであるが、新豊平橋完成にともない昭和四十二年七月に市が橋台小公園に移転安置せるものである。
尚この碑の筆跡は当時の北海道帝国大学総長 佐藤昌介氏の揮毫せるものである
昭和四十二年八月
札幌開祖志村鐡一碑顕彰保存会
吉田さんと志村さん。この2人の和人が幕末から現在の豊平橋両岸に住んで、渡し守をしていたことがわかります。ここで注意したいのは、両人の石碑に「札幌開祖」と刻まれて顕彰されていることです。これだけを読むと札幌にはこの2人とその家族以前には人が住んでいなかったように思えます。
実際、元小学校教諭の加藤好男さんはこう書いています。
現在でも小学校3年生の副読本に次のような記述がある。
「(志村鉄一と吉田茂八)・・・この二人とその家族の合わせて七人が、今の札幌の中心部にはじめて住んだ人たちでした。」(加藤1991)
加藤さんがこれを書いたのが1991年です。2022年現在では副読本の記述はどうなっているのでしょうか。この2人の和人の家族以外に、明治以前から札幌に住んでいた人たちがいるかもしれない。そのことがどれだけ知られているでしょうか?
参照文献
加藤好男1991『石狩アイヌ史資料集』私家版。