ペルー アヤクチョ

武力紛争で奪われた家族の記憶

「私を撃つ弾の代金として5ソーレスをあげましょう」アンヘリカメンドーサさん

証言者
アンヘリカ・メンドーサ・デ・アスカルサさん
(Angelica Mendoza de Ascarza)

生年月日 1928年10月1日
州 アヤクチョ
郡 ビルカスワマン
区 フアンバルパ
子どもの数 7人
犠牲者および事件発生日
息子アルキメデス・アスカルサ・メンドーサ (1983年7月2日)

 

 私は、家族と共にビスチョンゴの村で暮らしていました。夫は教師を勤めていました。息子が生まれてしばらくすると、ウアマンガへと移り住みました。最初は、テネリア通りに家を借りていましたが、その後サンタ・ベルタ地区、コンチョパタ地区と2度の引っ越しをしました。最終的には小さな土地を手に入れ、子ども達と穏やかで楽しい時間を過ごしていました。

 1983年のある日、息子のアルキメデスが、「お母さん、僕は警官になりたいんだ」と言いました。私は、勉強したくないなら、やりたいことをやりなさいと言いました。息子は、警官になるためにリマへ旅立ちましたが、結局、勉学を続けるお金が足りなくなって戻ってきました。

 その後しばらくは家に留まり、友達とギターを弾くなどしておとなしく過ごしていました。ある日、息子が近所の店にソーダを買いに行ったとき、近所のご婦人が夫以外の男と一緒にいるのを見つけてしまいました。彼女は浮気をしていたのでしょう。彼女の夫は警官でした。夫に告げ口されるのを恐れた彼女は、息子に関するデマを警官である夫に吹き込んだのではないかと思われます。

 後日、その警官が家へやってきて、アルキメデスはどこだと尋ねました。私は、息子は友達と勉強をしに出かけたと答えました。息子には少し足の不自由な友達がいて、いつもシンコ・エスキナス通りのそばにある彼の家に集まっていました。息子はおとなしい性格で、悪事に関わるような人間ではありませんでした。

 1981年7月1日の夕暮れ時、その警官エウテミオは、隣人らと共に私の家の玄関先で酒を飲んでいました。息子は友達とギターを弾きに出かけていました。私はおもてに出て、「エウテミオ、なぜこんな時間から飲んでいるんだい」と尋ねました。すると彼は、「このあたりに麻薬中毒者がいるらしいから見張っているんだ」と答えました。

 息子が戻ってきました。のどが渇いたというので1杯の水を与えるとそのまま寝てしまいました。外では、エウテミオ達がまだ酒を飲み続けていました。

 夜中の2時半頃、入り口のドアを叩く音がしました。私は、きっと酔ったエウテミオがドアを叩いているんだろうと思いました。すると次の瞬間、兵士達が塀を乗り越えて家の中へと入ってきました。目出し帽を被っている者もいれば、被っていない者もいました。家の外には軍用車が停まっていました。兵士達は私達全員を立ち上がらせて、「奴はどこだ、どいつなんだ」と口々に叫びながら家じゅうをひっくり返して物色しはじめました。結局、彼らの求めているものは何も見つからず、なんの証拠もありませんでした。すると兵士達は、お前の息子を連行すると言い出しました。息子は、小声で私に言いました。「お母さん、心配しないで。僕は何も悪くない、絶対に出てくるから。」

 息子は、寝間着の上にセーターを着て、裸足のままで連れていかれました。私は、息子に毛布と靴を渡すよう夫に言いました。兵士がそれを受け取りました。なぜ息子を連れて行くのかと尋ねると、黙らないと今すぐ撃つぞと脅されました。「殺したければ殺すがいい。けれども息子を連れて行くのをやめなさい!」私はそう言いながら息子の腕を掴みましたが、ドアの近くで兵士に手をひねり上げられました。地面に倒れた私を兵士は踏みつけて蹴り飛ばし、私の息子を外へと引きずり出しました。「明日の金曜、兵舎の入口まで来い!息子は調書を取るために連れて行くだけだ、クソババアめ!」そう言うと兵士達は軍用車に乗って去ってゆきました。

 明け方になり兵舎の入口に行ってみると、立っていた兵士がお前の息子はここには来ていないと言いました。その日から、私は息子を探して歩き始めました。警察署、犯罪捜査本部、兵舎などあらゆるところへ行ってみましたが、誰も何も教えてくれませんでした。

 探し歩いている間中、夢の中にいるような感覚に襲われました。悪夢の中をさまよい歩いているようでした。糸口が全く掴めないまま、どうすれば息子を助け出せるだろうと、ただおろおろと探し歩き続けるだけでした。息子が連れ去られて15日が経った頃、家に小さなメモ書きが届けられました。そこには息子の字でこう書かれてありました。「お母さん、僕は兵舎にいます。兵士達は意味もなく僕を拘留しているんだ。お金を用立てて弁護士を雇い、僕がここから出られるように裁判を起こしてください。」

 私は、検察庁に告発することにしました。ロカ弁護士を雇って書類を作成してもらい検察庁に提出しましたが、そこから何も進展しませんでした。息子のメッセージが書かれた紙きれを受け取ったことで、私は息子が兵舎の中にいることを確信しました。ある日、ロス・カビートスの兵舎内にある礼拝堂に通うアクーニャ神父に、私も連れて行ってくれるようお願いしました。神父に同行した私は兵舎内への入場を許されました。息子のことを尋ねると、兵士の1人が、「ここへは誰も連れてきていないが、念のため調べてみましょう」と言いましたが、息子の所在を確認することはできませんでした。その後、モデスト・メディナ神父にもお願いをして再び兵舎に入りましたが、兵士からはお前の息子はここには来ていないと言われるだけでした。

 その後、思い出すだけでも忌々しいブランコ某と名乗る大尉が、息子を兵舎から出してやるからと金銭を要求してきました。私は、息子のためを思い要求に従いましたが、お金を渡した後も息子が出てくることはありませんでした。その後、フアン・デ・ディオス・チュチョンなる人物が、姪っ子が兵舎の中で働いているから探すのを手伝ってやるというので、ご馳走をしてお金まで払いましたがまったくだめでした。

 私の息子は、犯罪に関する何の証拠もないまま連れ去られてしまいました。もしも、証拠があって連れ去られたのであれば、納得したかもしれません。息子が罪を犯していたのなら、政府を訴え続けることはしなかったでしょう。ですが、息子は何の証拠もなく連れ去られたのです。私は、息子のために正義を求め続けることをやめません。息子を連れ去ったのは、陸軍兵士や警察官、犯罪捜査官などからなる複合部隊でした。軍服を着ている者が多く、みな目出し帽を被っていました。中には私服の者もいましたが、彼らは犯罪捜査官だったのではと思います。息子は連れ去られた後、最初は犯罪捜査本部に連れて行かれ、その後空港に併設するロス・カビートス兵舎へ移送されたであろうことを、ニュースや噂を通じて知りました。

 その後、私は渓谷や洞窟の中などを探し始めました。最初は1人で探していました。遺体が山積みになっている場所も探し回りました。遺体は犬や豚に食べられていました。横たわっていたのはたくましい若者達の遺体で、中には金歯のある若者もいました。その時の私は、自分が生きようが死のうがどうでもいいと思っていました。プラクティの谷の斜面に、無数のアオバエがたかっている窪みを見つけました。私はそこに近寄ると、腰をかがめて、「アルキメデス!」と息子の名を呼びました。当時、その辺りには家がなく、ただ丘が広がっていました。息子の名を呼び続けていると、バンッと銃弾が飛んできました。顔を上げると、丘の上にたくさんの兵士が立っていました。「クソババア、そこから出ろ、出ないと殺すぞ!」すでに死ぬことへの恐怖心を失っていた私は、「ふざけるな、殺せるもんなら殺してみろ、私の息子はどこだ!」と叫びました。兵士達は、彼らが立っているところまで来るよう要求し、私はそれに従いました。兵士達は私を取り囲み、「この狂った老婆を殺さなければならない」と言いました。すると、1人の小柄な兵士が仲間達を遮って言いました。「いや、そんなことをしてはいけない。私達も母親のお腹から生まれたんだ。このかわいそうな女性を殺してはいけない。彼女を解放してあげよう。」言い終わるや否や、兵士達は私をかばってくれた彼を殺さんばかりに蹴り飛ばし始めました。

 そこへ隊長がやってきて言いました。「バカヤロウ!さっさとこのババアを殺してしまえ!」私は言い返しました。「セニョール、私は死ぬことなんて何も怖くない、いつ死のうがかまいません。なんなら、私を撃つ弾の代金として5ソーレスをあげましょう。でもその前に私の息子がどこにいるのか教えなさい。それさえわかったら安らかに死ねるのです。」すると、別の兵士がやってきて言いました。「そんなことをしていても時間の無駄だから、さっさと彼女を車へ積み込め。」私は、兵士達の車に乗るのを拒んで言いました。「あんた達に私を連れて行くことはできない、私には目と足がある。私は1人で行く。あんた達みたいな哀れな人間の世話になんかなりません。」わたしはその場を立ち去り、さらに下ったところでバスに乗り、なんとか家へとたどり着きました。息子を探すあいだ、水しか飲まず食事もほとんど摂りませんでした。家に帰らないこともままあり、帰ったとしても夢の中にいるような状態のまま食事を済ませて、また息子を探しに出掛けました。

 ある日、検察庁に行った帰りに1人の女性と出会いました。彼女から、ちょっと聞いてほしいことがあると言われて振り返った瞬間、弾丸が私の後頭部をかすめて教会の壁に当たりました。もし、女性に声を掛けられた時に振り向いていなかったら、今頃私はこの世にいなかったでしょう。その銃弾の跡は今でも教会の壁に残っています。

 ワタタス渓谷にあるランブラシュワイコでは、投げ捨てられた遺体の山を見つけました。インフィエルニージョにも行きましたが、そこでも遺体が山のように積まれていました。カカルミでも、25から30体ほどの遺体を見つけましたが、ほとんどが首のない遺体でした。私は、検察官や捜査官のところへ行ってこのことを話し、「セニョール、遺体の頭はいったいどこに持っていかれたのでしょう」と尋ねました。すると彼らは、「お前らの仲間のテロリストの仕業だろうよ」と私を罵りました。私は、遺体を運んで検視してくれることを望みましたが、彼らは全く取り合ってくれませんでした。仕方なく、その日は遺体を放置したまま帰りました。

 翌日、私は同じく行方不明の家族を探していた女性達に、「カカルミに遺体を確認しに行っておいで。遺体は服を着たままだから、もしかしたらあなた達のご家族が見つかるかもしれない」と勧めました。ですが、彼女達が現場に行ってみると、遺体はすべて無くなっていました。そこには1体の遺体も残っていなかったのです! 昨晩のうちに、遺体はすべてどこかに運ばれてしまったのです。私が検察官らに報告した直後に遺体が消えたところを見ると、やはり殺害を行ったのは軍隊だったのだろうと思います。

 ある時は、インフィエルニージョにも行きました。そこでもいくつもの遺体を見つけたので、私達は病院まで運びました。結果として、アンファセップのメンバーであるテノリオ氏は、遺体の中から自分の息子を見つけ出すことができました。

 あの当時は、集まることすら危険だったので、いつも危険の少ない検察庁や弁護士事務所の前で待ち合わせをしていました。アンファセップは、このようにして始まりました。正面から顔を撮影されてしまうとテロリストや軍に特定されてしまい危険なので、写真を撮られるときはいつも後ろを向くようにしていました。

 ある日、ベルギーから1人の神父がやってきました。神父は私に向かって、「なぜリヒター・プラダ神父に助けを求めないのですか」と言いました。私は答えました。「神父さま、私達も助けてくれると思ってリヒター神父に相談しましたが、何もしてくれませんでした。書類すら受け取ってくれなかったのです。」それを聞いたベルギー人神父は怒りました。その後、おそらくはリヒター神父に注意を促したのでしょう。後日、教会を訪れた私達にリヒター神父は気色ばんで言いました。「あなた方はいつ私に書類を渡したというのですか?」私達は書類を取り出し、主の十字架の下に座って言いました。「神父さん、じゃあいったいこれは誰のサインなんですか?これはあなたのサインじゃないんですか。なぜあなたは主の前で平気で嘘をつけるのですか?」

 その頃、リマからネプタリ・リセタ神父とパブロ・ロハス弁護士がやってきました。ネプタリ神父は、私達に向かって言いました。「あなた達がこのまま放っておかれていいはずがない。私が、ノーベル平和賞受賞者のペレス・エスキヴェル氏に手紙を書きますから、彼に来てもらってアクチマイの丘でミサを行いましょう。」最初にお願いに行った教会の神父には、ミサをやりたくないと言われました。そこで、サンフランシスコ・デ・パウラ教会の神父さんに相談したところ、快く受け入れてくれました。

 1984年3月20日、私達は、行方不明となった家族のために最初のミサを行いました。ミサが終わると、この日のためにウアマンガまで来てくれてペレス・エスキヴェル氏が、十字架を背負って街頭行進に付き添ってくれました。これが、私達にとっての最初の行進でした。行進が最後に近づいた頃、ペレス氏が、「今日からあなたはこの十字架を背負って歩くことになります」と言って、私に十字架を持たせてくれました。その瞬間から、私達はもう何も怖くなくなりました。それまでは、取材などでカメラを向けられたときはいつも背中を向けていましたが、そのとき以来前を向いて写真を撮れるようになりました。

 起こったことはあまりにも残酷でしたが、多くの人々は私達に同情の念さえ示してくれませんでした。人々の誤解や無関心が、私の心に計り知れないほどの苦しみをもたらしました。私は、政府機関に勤める役人達を恨んでいます。彼らは、私達のことを強制失踪者を探し歩く家族とはみなさずに、テロリストの一味として私達を憎んでいたからです。街の人々からも、デモ行進に出るたびに、「テロリストの母親達が出てきたぞ!」などと罵詈雑言を浴びせかけられました。だから私は、今でもウアマンガの街の人々に憤りを感じています。私達を支えてくれたのは、ほとんどがリマの団体の人達でした。

 ウアマンガの弁護士に相談に行った時のことを思い出します。私達が事件を告発するための書類作成の依頼に行っても、弁護士からは、「何のためにそんなことをする必要があるのか」と足蹴にされるだけで、お手伝いしましょうと言ってくれる弁護士などほとんどありませんでした。

 息子の失踪は、私の人生に大きな影響を与えました。息子を思い出すたびに心が痛み、いつもふさぎ込んでしまいます。今日まで息子を見つけることができず、裁判を通して正義を勝ち取ることさえできていません。いくつかの人権団体が息子を探す手伝いをしてくれましたが、結局は見つかりませんでした。アンファセップのメンバーを見ていると、とても心が痛みます。私と同じように、愛する家族を探して、公正な裁きを求めて歩き続けてきたのに、今になってもそれが実現していないからです。ですが、そのメンバーの苦しみを思う気持ちが、沈黙することなく闘い続ける強さを私に与えてくれます。

 現在、私は病気がちでとても弱っています。何をしても楽しいと思えず、常に心の中に悲しみを抱えています。ですが、多少しんどくてもアンファセップのオフィスには通い続けています。アンファセップは、私達の手で築き上げ維持してきた団体ですから、通い続けないわけにはいかないのです。もう習慣になっているので、数日通わないだけでも早く戻りたいと思ってしまいます。

 1日も早くこの地に平和が訪れ、皆が仕事にありつけ、孤児達が学業を続けられるようになればと願っています。そして、皆の生活が改善され、良い思想に基づいてよりよいペルーを築いてくれることを望んでいます。

2022年03月19日更新