ペルー アヤクチョ

武力紛争で奪われた家族の記憶

「警官は娘を3度も拷問しました」アレハンドラアランゴさん

証言者
アレハンドラ・アランゴ・ヴァルガスさん
(Alejandra Arango Vargas)

生年月日 1925年03月01日
州 アヤクチョ
郡 ウアマンガ
区 サン・ペドロ・デ・カチ
集落 モリーノス
子どもの数 8人
アンファセップ参加年 1983年
犠牲者および事件発生日
娘、フリア・メルガル・アランゴ(1983年12月8日)

 暴力の時代がはじまるまでは、子ども達と共に、畑で色々な種類の穀物を育てて暮らしていました。私は、とても若くして未亡人になりました。銀行からお金を借りて穀物を栽培し、イカやピスコといった沿岸部の街へ運んでは売っていました。そうやって、すべての子ども達を育ててきました。娘が行方不明になる少し前、警官に3度も拘束されて、拷問を受けながら尋問されたことを娘自ら教えてくれました。

 1度目は、いきなりやってきた警官にウアマンガで借りていた部屋から引きずり出され、警察署に連れていかれて拷問を受けたそうです。娘は拷問を加える男達に向かって、「私は何も知りません!私はテルーコなんかじゃありません」と言いました。それに対して警官達は、「なぜ否定するんだ、 なぜ真実を言わないんだ」と言って信じてくれなかったそうです。2度目の拘束時にも拷問を受け、3度目に拘束された際には、「なんで私にこんなひどい仕打ちをするの? それならいっそのこと私を殺してよ!」と言ったそうです。

 1983年の12月のある日、娘は「お母さん、試験を終えたら戻ってくるね」と言いました。私は、「危険だから村から出るんじゃない」と言ったのですが、教育委員会の人達から、「お前はテロリストだから来たくないんだろう?」と言われたことに腹を立てていたようで、娘は仕事に行ってしまいました。

 それ以来、娘は二度と戻ってきませんでした。娘のフリアは当時22歳で、サン・ホセ・デ・セヘという村で教師をしていました。彼女は、アヤクチョ州の教育委員会から教師として派遣されていました。

 4度目の拘束は、1983年12月8日の午前3時頃に起こりました。娘は、サン・ホセの村長宅で寝泊まりをしていました。そこへ、目出し帽を被り黒いポンチョを纏ったシンチスが複数人入り込んできました。村長宅には、私の娘を含めて4名の教師が寝泊まりしていました。うち2人は赤ちゃんを連れており、娘ともう1人の教師は独身でした。赤ちゃんを連れた2人の教師は、毛布を被せられて蹴り飛ばされました。村長とその妻は、別の部屋に閉じ込められました。そして、私の娘ともう1人の教師だけが連れて行かれました。シンチス達は、「こいつらはテルーコだ!」と口々に叫んでいたそうです。

 娘達が連れ去られる数日前、ラ・マル郡のタンボ区において軍の少尉が車内で殺害されているのが発見されたのですが、シンチス達は娘達がその犯人だと思い込んでいるようでした。しかし、私の娘はまったくの無実です。最初は、靴を履かずに上着だけ羽織った姿で連れて行かれたようですが、なんとか頼み込んで靴下と靴を履くのを許してもらったそうです。娘は、連行される直前こう叫んでいたそうです。「なぜ私を連れて行くの?いったいどんな理由で連れていかれなければならないの?なぜ毎晩私を拷問するの?私は、テロリストなんかじゃない!」

 翌日、村長は村の派出所に向かい、なぜ夜中に教師達を連れ去ったのかを被害届の提出と共に尋ねたそうです。すると警官達は、ここには誰も連れてこられなかったと答えたそうです。村長は、娘のフリア・メルガルが行方不明になったという手紙を私に送ってくれました。知らせを受け取った私は、弁護士を雇ってウアマンガのロス・カビートス兵舎に書類を送ってもらいました。それから15日後、兵舎には娘が拘留されていない旨を伝える返事が返ってきました。私は、あきらめきれずに何度もロス・カビートス兵舎に宛てて書類を送りましたが、その都度ここには彼女はいないという返事が返ってきました。

 事件から1か月後、私は娘に何が起こったのかを知るためにサン・ホセ・デ・セヘの村へと足を運びました。村では警官から、「お前は何を探しているんだ、いったい何がしたいんだ」と言われました。また別の警官は、「兵士達がお前を探しているぞ。お前が来たら知らせろと、お前を見つけたら殺すようにと言われているんだ」と言って私を脅しました。

 午後になると、村長夫人から、「今晩はリリオの集落で休みなさい。あなたはここにいてはいけない、あなたの命が危ない」と言われました。翌日、村長宅を再訪すると、靴や衣服、食器など娘の所持品を渡してくれました。娘が寝泊まりしていた部屋は物色された跡があり、床にはつるはしで穴が開けられていました。娘が何かを隠していると思って穴を掘ったようですが、結局何も見つからなかったそうです。

 村長から娘の家賃を払ってくださいと言われましたが、それは娘が見つかってからにしてくださいとお願いしました。その後、娘を探すために2度サン・ホセ・デ・セヘを訪ねましたが、娘に関する情報は一切得られなかったどころか、村人達は怖がって何も話してくれなくなりました。村人達は、娘には会ったことがない、それはいったい誰のことだろうなどと言いはじめました。「背が高くて痩せていて、子ども達に優しくて愛情深い先生のことは覚えているけれど、あなたの娘のことは知らない」と言われました。

 私はその後、ウアマンガ、ワンタ、サン・ホセ・デ・セヘにあるそれぞれの兵舎に告発状を提出しました。娘のミサの費用に充てようと、娘の未払いのお給料を受け取るために教育委員会にも行きましたが、教育委員長からはこう言われました。「あなたの娘さんの給料など残っているはずがないでしょう。けれど心配しないで、25年も経てば戻ってくるんじゃないですか。」結局、お金が足らずに娘のためにミサをしてあげることができませんでした。もし娘が生きていたら、何らかの知らせがあるはずなのですが、今になるまで何の便りもありません。

 私がアンファセップに参加はじめたのは、娘のフリアが失踪した1983年からでした。娘を探し歩いていたとき、ウアマンガの中央広場でアンヘリカ夫人に出会いました。現状を訴えるために、彼女と一緒にリマに3度ほど出かけました。ある会議の席で、何人かのジャーナリストがワンタ、サン・ホセ・デ・セヘ、キヌア、タンボを取材して歩いた時のことを語ってくれました。

 1人の記者が、取材の途中、兵士達がなんの哀れみもなく1人の若い女性の手を後手に縛って拷問していたのを見たと言いました。拷問を受けていた女性は、瘦せていて色白の娘だったとのことです。もしかすると、その女性は私の娘ではないかと思いました。その若い女性は、拷問を受けた後にユーカリの木に吊るされて撃ち殺されたとのことでした。すると、それを聞いていたカンチャリ先生の奥さんが急に立ち上がって、「ここにいるのがその女性のお母さんです!」と私を指差して言いました。それを聞いたジャーナリスト達は、私に気を使って話題を変えました。ジャーナリストの1人は、「兵士達には一片のやさしさもなく、まるで自分達が女性から生まれた者ではないかのごとく、彼女に拷問を加えていた」とも語りました。彼らが語る女性の特徴は、すべて私の娘と一致していました。ですが、その女性に関する情報はその後一切得られませんでした。

 娘のフリアがいなくなってしばらくは、いつも泣いていました。外で犬が吠えるたびにまた兵士が来たのではないかと怯えましたが、もしかしたら娘が戻ってきたのかもしれないとも思いました。いつも窓の外を眺めながら、娘の帰りを待ち続けました。あの日以来、すべてが一変してしまいました。家族がみんな揃ってそばにいてくれたころは、とても幸せでした。現在、私はいつも気分が優れず、頭痛、胸の痛み、全身の痛み、骨の痛みなど体中に痛みを抱えています。もう目も見えず、耳もよく聞こえなくなりましたし、物忘れがひどくなりました。もう年ですから働くこともできず、子ども達に養ってもらっています。もう歩くこともできないのですが、起こったことを知ってもらうために、今日は勇気と力を振り絞って語りにきました。せめて家でも建ててもらって、娘との思い出に代えたいです。神様が迎えにきてくれるその日までには、正義が果たされることを望み続けます。

2022年03月19日更新