ペルー アヤクチョ

武力紛争で奪われた家族の記憶

「恐ろしくて家では寝ませんでした」ロレンサキスペさん

証言者
ロレンサ・キスペ・ロメロ・ヴィウダ・デ・ソトさん
(Lorenza Quispe Romero vda. de Soto)

生年月日 1953年10月11日
州 アヤクチョ
郡 ワンタ
区 ワンタ
集落 オルクワシ
子どもの数 6人
アンファセップ参加年 1985年
犠牲者および事件発生日
夫、マルセロ・ソト・クワ(1984年1月14日)
義理の兄弟、ビクター・ソト(1985年1月?日)
義理の兄、アレハンドロ・ワマン(1985年1月?日)

 私たちはティンクイという集落で、家畜を育てながら暮らしていました。また、セルバ(アンデス東部の熱帯雨林地域)にも畑がありましたので、生活には困ることはありませんでした。ですが、村に危険が迫ってきてからは、様々なことで苦しむようになりました。1984年1月14日の午後4時頃、私の家にシンチスが入り込んできました。総勢18名前後の男達は、村に車で乗り込んでくると外を見張る者と家々に入っていく者とに分かれました。

 男達が家に入ってきた時、夫は息子を抱いていました。男達は、息子を夫から引き離しました。なぜ夫を連れて行くのかと聞くと、「俺達はただ銃の扱い方を教えるだけだ。今日の午後はこの村に留まるので、もしテルーコが襲ってきたら我々を守ってもらうためだ」と男の1人が答えました。当時、夫は29歳でした。連れ出された夫は、隣人のイグナシオ・ゲラとアウレリオ・マルティネスらと共に村の集会所へと連れて行かれました。集会所では、男達がラジオを大音量でかけて騒ぎはじめました。

 中で何をしているのかまったくわかりませんでした。私達が近づこうとすると、銃で脅されました。その後も、中の様子を伺おうとしましたが叶わず、子ども達がお腹を空かせて泣き始めたのでご飯を作りに家へ戻りました。

 料理を作り終える頃には、もう夜の7時になっていました。その時、近所の人達が、兵士達が夫と2人の村人を連れて車で行ってしまったと教えてくれました。すぐに追いかけようとしましたが、すでに外は真っ暗でした。当時、戒厳令が発令されていたため、夜の7時を過ぎると車は走っておらず、自警団も村への車の乗り入れを禁じていました。それで、私は夫を追うのをあきらめました。

 その時以来、夫の行方はわからないままです。ですが、もしあのとき夫を追いかけていたら、2人とも殺されていたでしょう。翌朝、子ども達と共にタンボの警察署へと向かいました。私は警官に向かって言いました「夫はどこにいるの?夫を返してください!」すると、警官はこう答えました。「我々は彼らにいくつかの質問をするために連れてきただけで、それが済んだら家に戻れるでしょう。子ども達がお腹を空かしてるだろうから、もう家へ戻りなさい。」

 私は警官の言葉が信じられず、それから2日間、警察署の入り口に子ども達と居座りました。翌日、同情した兵士が子ども達にオートミールのおかゆを与えてくれました。兵士は、「なぜ家に帰らないんだ?ご主人の供述を取ったら返してやると言っているじゃないか」と言いました。

 派出所に出入りしている調理人にも夫の居場所を聞いてみました。すると調理人は、「セニョーラ、兵士達はあんたの夫をサン・ミゲルかワンタに連れて行ったに違いないよ。捕虜達は、いつも夜中に連れていかれるんだ。」

 警察署の入り口で3日間過ごした後、私は子ども達を老いた義父に預けるため一旦村へと戻りました。その後、ワンタへと向かい2週間ほど滞在しました。何人かの村人がそこで殺されたという話を聞いたからです。私は、それが夫かどうかを確認したかったのですが、兵舎の中へは入れてもらえるわけもなく、兵士達に銃を突き付けられて追い返されました。私は、ただ泣きながらその場に立ち尽くしました。ワンタに2週間もいたのに、何も分からずに村に戻りました。もしくは、セルバに連れて行かれたのではないかと思い、サン・フランシスコの街にある駐屯地へも足を運びましたが、そこでも何の手掛かりも得られませんでした。

 あの日、兵士達は村を囲む山々を歩き回っていましたが、結局何も見つけられなかったようでした。その後、家にやってきた兵士達は、「我々はテロリストを探している」と言って夫を連れてゆきました。もしかしたら、何らかの理由で私達を恨んでいた村人が、兵士達に嘘を吹き込んだために夫が連れていかれたのかも知れません。

 その後、ウアマンガ、ワンタ、タンボの各街にある検察庁事務所に赴いて告発状を提出しました。受理はされましたが、いずれの事務所でも何もわからなかったと言われただけで、提出した告発状を返してすらくれませんでした。途方に暮れる私に、人権団体にお願いにいけばなんとかあなたの夫を助け出してくれるだろうと教えてくれる人がありました。私は、まだそのときはアンファセップの存在を知りませんでした。

 その後、しばらくは村に留まっていました。村では陽が沈むと家を出て、山の斜面や岩場、大木の下や灌木の間など、風や寒さをしのげる場所に隠れて子ども達と共に眠りました。夜になると、軍やテロリストが家に入ってきては誘拐や殺害を繰り返していたため、村人は皆、家で寝ないようにしていました。

 1984年12月の午後4時頃、テロリストがティンクイの集落を襲いました。彼らは人々を欺くために兵士に扮していました。男達は、村人を集めると斧で次々に殺し始めました。斧で村人の頭を叩き割り、頭に突き刺さった斧を引き抜いては再び別の村人の頭を斧で叩き割りました。私の目の前で、義理の兄弟2人を含む12名の村人が殺されました。私は、絶叫しながら気を失いました。目を覚ましたときには、村のすべての家が焼き払われており、テロリスト達は村にあるすべての家畜や穀物を奪ってどこかへと去ったあとでした。倒れている私の脇には、血の海が広がっていました。村人が殺される前、テロリスト達は言いました。「ヤナ・ウマス達よ(=黒い頭:センデロ達は自分に従わない人々をこう呼んだ)、 今からお前らを全員殺してやる!命乞いして泣いたってもう遅いんだよ!」。たくさんの遺体を目にした私は、耐えきれずに再び気を失ってしまいました。眠っていたのかどうしていたのか、その後自分の身に何が起こったのかは一切覚えていません。

 事件が起こってしばらくの間、私達家族は村を離れていましたが、1986年、私は末っ子を連れて村に戻りました。ある日の深夜11時頃、私達が寝ていると3人の兵士達が家の中に入ってきました。男達は、私に立ち上がるよう命じました。すると男達は、私をレイプしようと襲い掛かってきました。必死で抵抗しましたが、男達の力は強く押し倒されました。そして私は、兵士の1人にレイプされました。私がレイプされている間、残りのろくでなしたちは、誰かが入ってこないように入り口で見張っていました。

 その後、何についてかはわかりませんが、男達は話し込み始めました。私は、その隙を見て彼らの足元をすり抜けて部屋を出ました。逃げる私に向かって兵士達は言いました。「このことを他人に話したり告発したりしようもんなら、どこにいようがお前を探し出してやるぞ!もう、お前の顔はしっかり覚えたからな。」私は、恐怖のあまり隣人宅へ逃げ込みましたが、レイプされたことは誰にも言えず、通報することもしませんでした。

 私は、その時のレイプによって妊娠してしまい、子どもを出産しました。私は、その子を自分の息子として育て、若者へと成長しました。ある日、勤め先のパン屋から帰宅途中の息子は、道端でつまずいて転んでしましまいた。運の悪いことに、転んだところに落ちていた針金が目に突き刺さり、片目を失明してしまいました。

 病院に行って障害者手帳を申請しましたが、医師からは手帳をもらえるのは手足のない人だけだと言われました。片目になった息子は、勉学を続ける意欲を失ってしまいました。挙句、もう片方の目は近眼なため、どうやって勉強すればいいんだと息子は嘆きました。

 2人の義理の兄弟が殺された後、私は飼っていた子犬と家畜を村に残してウアマンガへと移り住みました。私の心は引き裂かれ、悲しみに打ちひしがれていました。なんのあてもなくウアマンガにたどり着きましたが、プエンテ・ヌエボ地区にあるパン屋のご婦人のご厚意で、連れてきた子ども達と共に間借りさせていただくことができました。

 ある日、ひとりの女性が子ども達に食事を提供してくれる食堂があるからとアンファセップへ連れて行ってくれました。そこで、調理人のアンドレスとアンヘリカ婦人に出会いました。その後、子ども達を食堂に残して、私はセルバへ出稼ぎに行きました。その後は住まいを転々とし、当時アンファセップの事務所とこども食堂があったマエストロの家にも留守番係として5か月間住み込みました。その後、観光ホテルの向かいにある別のパン屋に住み込んで調理婦として働きました。ですが、パン屋のご婦人は子ども達が飼い始めた子犬が苦手だったようで、私達はそこを出ることになりました。

 1991年に、国立ウアマンガ大学の所有地だった空き地の一画を、学長にお願いして譲っていただきました。その当時は、まわりに人が住んでおらず水道も電気もありませんでしたが、そのうち人が住み始めてインフラも整うだろうと思っていました。しかしながら、大学の職員達がその土地の権利を主張して不法占拠を始めたため、私は2度に渡って立ち退きを迫られ、せっかく手に入れた土地を手放さざるをえませんでした。悲嘆に暮れて毎日を過ごしていると、夢の中で小さな老人が現れ、「もう泣くな、お前に家を与えてやるから」と言いました。その後、不思議なことに夢が現実となり、小さな家を持つことができました。

 私は22年間、調理婦として働き子ども達を育ててきました。私は、母親としてだけではなく、失踪した父親に代わって二重の役割を果たしてきました。私は、何も持たずに村からやってきました。お鍋や日用品など、時間をかけて少しずつ買えるようになりました。個人宅を回って洗濯婦として働いていると、子どもの服をくださる方もありました。時には1日中、食事を摂る暇もなく洗濯物を洗い続けました。ついには、洗濯をしすぎたせいか体調を崩してしまい、卵巣に炎症を起こしてしまいました。それ以来、洗濯婦の仕事はやめました。

 その後も、アンファセップの食堂に子ども達を預かっていただきながら働き続けました。すべては昔のようにはいかず、毎日悲しくて、夢の中を彷徨っているようです。あの事件が私の人生に大きな影響を与えました。もしも夫が生きていたならば、私はもっと若々しくいられたかもしれません。体調もすぐれず、私の人生も日ごとに終わりに近づいているようです。子どものうち何人かは学業を終えましたが、学業を終えることがでなかった子ども達のことがずっと気がかりです。

 アラン・ガルシア大統領は、私達被害者の立場に立とうとはしません。私達は、正義を手にするために連帯しなければならないし、謂れのない差別や偏見に立ち向かわなけばなりません。被害者の子ども達への学業や就職への支援を私達は望みます。政府は、すでに高齢になってしまったアンファセップのメンバーやその家族のために医療保険を提供すべきです。行方不明となった家族に関して、何の情報も得られないまま亡くなっていく高齢者もいます。そんな彼女達へも何らかの補償をお願いしたいです。

 私達の命は、もうそう長くはありません。大きくなった被害者家族の子ども達は、社会から疎外されています。若者にも、お年寄りにも何の助けもありません。支援は、犠牲者家族に直接届けられなければなりません。病気になっても、治療費がないために病院へ通えない人がほとんどです。食べることにも事欠くメンバーもいます。私達はいつも不安を抱えており、十分な食事を摂ることもできません。被害者の子ども達は、食べることも、学ぶことも、仕事の機会を得ることも必要ないとでもいうのでしょうか。暴力の時代、政府当局は私達の訴えに耳を傾けようともせず、告発を受理しても、段ボールに保管したり隠ぺいしたりするだけでまともに対応してくれませんでした。当時は、皆が問題に関わることを恐れていたからだと思いますが、今になってようやく、人権団体が私達を助けてくれるようになりました。

2022年03月19日更新