C-3 開拓使仮学校
北海道大学のはじまりは何でしょうか?
札幌農学校?
惜しい、というより、間違いです、、、
答えは「開拓使仮学校」です。これが札幌学校→札幌農学校となり、今日の北海道大学にいたるからです。
でも、その当の北海道大学も、総合博物館「北海道大学の歴史」という展示で、「北海道大学は・・・札幌農学校として始まりました」と書いているのですから、そう思う人が多いのも仕方ありません。
「開拓使仮学校」を思い起こすことの何が重要なのでしょうか。またそれを忘れることにどんな問題があるのでしょうか?
開拓使仮学校は東京に設けられました。ゆくゆくは札幌に移すことを想定して「仮」学校としたようです(狩野・広瀬2008:42)。場所は芝・増上寺境内で、後にできた東京タワーのすぐ近くです。1872(明治5)年、ここに開拓使仮学校と附属の「北海道土人教育所」が開設されます。さらに現在の渋谷の辺りに開拓使官園が設置されます。
この年、北海道土人教育所と開拓使第三官園に、北海道の石狩、札幌、夕張、小樽、高島、余市から35名が送られました。これらの地域は札幌本庁とその出張所のお膝元であり、開拓使の影響がすでに強く及んでいたからだと考えられます(狩野・広瀬2008:61-62)。サッポロのコタンに関していうと、コトニ・コタンからは琴似又市さん1名、フシコ・コタンからはイコリキナさんら4名、ハッサム・コタンからはイワオクテさんとウテモンガさん夫婦ら4名が送られました。2年後の1874(明治7)年には余市から1名、択捉島から2名が加わり、計38名のアイヌが東京に送られたことになります。
こうして東京に送られたアイヌのうち、若い人たちには北海道土人教育所で日本語の読み書き、算術、裁縫などを学ばせ、上の世代の人たちは開拓使第三官園に「農業現術生」として農業実習を受けさせるというのが黒田清隆の方針でしたが、次第にそれはあいまいになったようです(狩野・広瀬2008:69)。琴似又市さんやイコリキナさんは開拓使第三官園に配属されました。
第三官園で撮影された集合写真を見てみましょう(この他に、開拓使仮学校附属土人教育所の男子生徒と女子生徒それぞれ1枚ずつの写真が残されています。詳しくは東京アイヌ史研究会2008:iおよび143-147を参照)。
アイヌ民族を東京に送って教育を受けさせることは、開拓次官(当時)の黒田清隆の発案であったようです(狩野・広瀬2008:49-52)。その意図は同化教育です。黒田はアイヌの生活風習を「陋習(いやしい習慣)」「醜風(みにくい風習)」などと決めつけ、アイヌを北海道から切り離して東京で学ばせることで、彼が「開化」していると考える「内地」の日本人の生活を学ばせようとしたのです。つまり黒田が狙ったのはアイヌ文化の消滅です。この考え方自体が、社会ダーウィニズム(社会進化論)に基づいた差別的なもので、これに基づくアイヌ民族の「東京留学」は、アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリアで先住民族に対して各国政府が行った強制同化教育と地続きのものでした。黒田が開拓使顧問として北海道に招いたホーレス・ケプロンは、アメリカにおいて対先住民政策の指揮を執った経験があり、このケプロンの影響で黒田がアイヌ民族の同化教育策を構想した可能性も指摘されています(狩野・広瀬2008:56)。
東京に1872(明治5)年に送られた35名からは多くの病人が出て、1874(明治7)年の約2年の間に4名が死亡しています。死産の赤子を加えると5名の死者が出てことになります。詳しい死因の分析は文献(狩野・広瀬2008::98₋103)に譲りますが、食事が原因の脚気ではなかったかと推測されています。それだけでなく、慣れない気候風土に投げ込まれたこともストレスとなっていたでしょう。
最初に亡くなったのが小樽出身のハモテさんで、1872(明治5)年11月13日のことでした。増上寺近くの青松寺で神葬祭が行われ、埋葬されたようです。そのお墓の所在は、その後の戦火のためのわからなくなっているとのことです(長谷川2008:27)。その他の4名の人たち
- 1873(明治6)年3月29日に余市のハシノミさんが死産した赤子
- 函館の病院に移された後1873(明治6)年7月17日に病死した石狩のラウシさん
- 1874(明治7)年4月17日に病死した夕張のアフンテクルさん
- 1874(明治7)年5月4日に亡くなったフシコ・コタンのイコリキナさん
についてはどこに埋葬されたのか、わかっていません。故郷に残された家族たちの心痛がどれほど大きかったか、察するに余りあります。
このように病気が蔓延し、死者が続出したことは、東京に滞在中のアイヌの仲間にも動揺をもたらしたはずです。1874(明治7)年には、死亡したイコリキナの弟たちが帰省願いを出しています。イコリキナの家族が大変困り、また両親も病気になっているから帰りたいというのです。同じころ20名が「帰国」を、5名が一時の「帰省」を願い出ています。その希望は認められ、同年9月北海道土人教育所は閉鎖されました。
開拓使仮学校はその後、1875(明治8)年に札幌に移され札幌学校と改称、翌年には札幌農学校となり、ここによく知られるクラーク博士が教頭として赴任することになります。札幌農学校の影に、東京に送られた38名のアイヌ民族がいるということが思い起こされなければなりません。開拓使仮学校は北海道の植民地化を押し進め、アイヌ民族に対しては同化教育を押し付ける役割を果たしました。それを札幌農学校は引き継いで実行に移していったのです。クラーク博士がアメリカ合衆国から招かれた意味を、植民地主義の文脈で検証することも必要です(C-4 3つの像とその影)。
かつて東京に送られたアイヌ民族の運命のことを知った、関東で暮らすアイヌの長谷川修さんらによって、芝公園において先祖供養、第一回《東京・イチャルパ》が行われたのは、5名のアイヌが亡くなってから約130年を経た2003年のことでした。
参照文献
大坂拓2022「琴似又一郎の写真について―北海道大学附属図書館所蔵資料の再検討―」『札幌博物場研究会誌』2022:1-7。
狩野雄一・広瀬健一郎2008「開拓使による東京でのアイヌ教育」東京アイヌ史研究会(編)『《東京・イチャルパ》への道:明治初期における開拓使のアイヌ教育をめぐって』現代企画室:39-142。
東京アイヌ史研究会(編)2008『《東京・イチャルパ》への道:明治初期における開拓使のアイヌ教育をめぐって』現代企画室。
長谷川修2008「シンリッモシリ・コイチャルパへの道」東京アイヌ史研究会(編)『《東京・イチャルパ》への道:明治初期における開拓使のアイヌ教育をめぐって』現代企画室:7-38。