C-4 3つの像とその影:黒田清隆、ウィリアム・スミス・クラーク、新渡戸稲造
BLM(ブラック・ライブズ・マター)運動を覚えているでしょうか。2020年5月にアメリカ合衆国ミネソタ州でアフリカ系アメリカ人のジョージ・フロイドさんが、警官に首を膝で長時間押さえつけられた末に死亡しました。この事件をきっかけに、「黒人のいのちは大切だ」をスローガンに、黒人差別に抗議する運動が全米に波及、さらにはこの問題の背景にある人種主義と植民地主義を根本的に問い直す動きが、アメリカ大陸各地やヨーロッパにも広がりました。例えば、メキシコ市のコロンブス像、ベルギーの首都アントワープの元国王レオポルド2世の像が、植民地主義を象徴するものとして撤去され、イギリスのオックスフォード大学オリオル・カレッジに立つ政治家セシル・ローズの像の撤去も検討されました。
これらの動きのポイントは、これまで顕彰されてきた「偉人」を、人種主義や植民地主義の被害にあった人たち(「黒人」や先住民族)の側から見る、という視点の転換が起こったことです。
日本ではこれは「対岸の火事」で終わった印象があります。しかし、人種主義や植民地主義を自らの問題として真剣に受け止め、ふだん歩いている公園やキャンパスに立っている「偉人」の像を、先住民族やその他のマイノリティの側から見たとき、どう見えてくるのが、考えてみましょう。
黒田清隆像
例えば、札幌市の大通公園西10丁目に、黒田清隆像がホーレス・ケプロンの像と並んで立っています。
黒田清隆(1840₋1900)は、1840(天保11)年薩摩に生まれました。1870(明治3)年5月開拓次官(長官は東久世通禧)に就任、東久世が長官を辞任した1871(明治4)10月以後は長官職務代行となりました。そのころ黒田は、東京の開拓使仮学校と官園にアイヌを送ることを発案、その結果、38名のアイヌが東京に送られ、1872(明治5)年から 1874(明治7)年の間に5名の死者を出すことになりました(C-3 開拓使仮学校)。1874(明治7)年8月から1882(明治15)年1月の期間には、黒田は第3代そして最後の開拓長官を務めます。1875(明治8)年にロシアとの間で千島樺太交換条約の締結に影響力を発揮し、841名の樺太アイヌを北海道に移住させ、翌年には内陸部の対雁へのさらなる移住を強行します。そこで伝染病のために300名以上の人たちが犠牲にいたりました(I 対雁と樺太アイヌ)。アイヌ民族の犠牲を顧みず、強制同化政策を押し進めていった黒田清隆のこの面を認識したとき、このように「開拓の偉人」としてただ顕彰しているだけでいいのでしょうか?北海道民ばかりでなく、開拓使を継承する「北海道庁」は、この問い直しに真剣に取り組まなくてはならないのではないでしょうか。
クラーク像
札幌農学校・初代教頭のクラーク博士についてはすでに知られすぎているくらい有名ですから、ここでは繰り返しません。ただ彼がどこから来たのか、それがどのような土地だったのかだけを振り返って、なぜ北海道に招かれたのかを示唆するにとどめます。ウィリアム・スミス・クラークは1826年、アメリカ合衆国のマサチューセッツ州に生まれ、そこの農科大学学長となりました。
ところで、皆さんはマサチューセッツという地名が何語で、どういう意味か、ご存じでしょうか?
マサチューセッツ(Massachusetts)とはその地域の先住民族アルゴンキンの言葉で、「大きな丘の場所(large hill place)」もしくは「大きな丘のふもと(at the great hill)」を意味します(くわしく見ると、“massa-adchu-es-et”とつづられ, “massa” は大きい、“adchu”は丘、“es” はis a 指小語尾 、“et”は 場所を示す接尾辞で、具体的にはマサチューセッツ州ミルトンにあるグレート・ブルー・ヒル(Great Blue Hill)を指す地名のようです:「マサチューセッツの歴史」―「マサチューセッツがいかに名付けられたか」2022年3月10日参照)。
イギリスなどからの入植者によって、アメリカ東部のアルゴンキンら先住民族は圧迫されていきます。その土地が「マサチューセッツ州」と呼ばれるようになり、そしてそこで入植者が農業を営むようになりました。西洋流の農業技術の研究と普及をはかったのが、クラークが学長を務めたマサチューセッツ農科大学でした。アメリカと北海道という2つの植民地主義のコンテクストを背景に、クラークはマサチューセッツからサッポロに来て、札幌農学校教頭に赴任したわけです。
ちなみにアメリカの開拓=植民地化は東部から西部へと進められ、その境界線を入植者は「フロンティア」と呼びました。北海道大学でもたんに「最先端」のような意味合いで使われる傾向のある「フロンティア」には、植民地主義的な背景があります。このことを、先住民族の視点に立って理解し、その使用を再検討すべきではないでしょうか。
新渡戸稲造像
新渡戸稲造もクラークと並んで札幌農学校-北海道大学を象徴する人物として引き合いに出されます。彼の「国際人」「ヒューマニスト」としての功績の大きさは疑うべくもありません。しかしそれと裏表の関係にある「植民地主義者」としての顔も見なければ、一面的な評価に終わってしまうでしょう。
日本で最初の「植民学」の講義を1890(明治23)年に佐藤昌介が札幌農学校で行いました。新渡戸稲造は佐藤昌介と交代で植民学の授業を担当しました(井上2003:112)。彼はその後、日本の植民地となっていた台湾の総督府技師などを務めます。その新渡戸は台湾、朝鮮、そしてアイヌなどに対して差別的な発言を残しています:「北海道の殖民が大した困難を伴わなかったのは、原住民のアイヌ族が、臆病で消滅に瀕した民族だったからである」(新渡戸1986:484)。
これまで新渡戸稲造を偉人として疑問なく称揚してきた人には、こうした彼の「影」の側面に向き合うことが困難かもしれません。しかし、こうした発言が向けられる人たちの方が、「日本の殖民」によって比べようのない苦難を体験してきたのだということをまず知らなければなりません。この痛みを伴った自己反省から、アイヌ民族との関係の改善がようやく始まるのではないでしょうか。その向こうに、長い対話の末に、「信頼」や「共生」ということを語ることができる未来があり得るのかもしれません。
現在の北海道大学札幌キャンパスには、植民者であるクラーク像や新渡戸像、また佐藤昌介像は立っています。しかし植民地化されたアイヌ民族の歴史を示す像も、説明版も何もありません。この記憶の非対称性が植民地主義の継続ということに他なりません。忘却され、無かったことにされ続けている、キャンパス内のアイヌ民族の歴史の跡を見えるようにする努力が、キャンパスの脱植民地化の第一歩となるでしょう(それを目指した本に北大ACMプロジェクト2019があります)。その努力の積み重ねを通して、「北海道大学は先住民族であるアイヌの土地の上にある」という意識が共有されるようになっていくのでしょう。その際、この脱植民地化のためのポータルの「カナダ・ユーコン編 大学と先住民族との共働」―「3.キャンパスの脱植民地化と和解」「4.カリキュラム」で紹介されている実例は大いに参考になるはずです。
参照文献
井上勝生2003「札幌農学校と植民学-佐藤昌介を中心に-」『北大百二十五年史, 論文・資料編』北海道大学:111-162
新渡戸稲造1986「日本の殖民」『新渡戸稲造全集 第21巻』教文館。
北大ACMプロジェクト(編)2019『北海道大学もうひとつのキャンパスマップ:隠された風景を見る、消された声を聞く』寿郎社。