A-3 オソウシ - 精進川
豊平橋を下りてサッポロ(豊平川)に沿って散歩してみましょう。両岸に歩道が整備されていて、雪が融ける5月以降になると気持ちよく歩けます。東側(上流に向かって左側)の川岸に下りて、3つ目の橋が幌平(ほろひら)橋です。このような風景が望めます。
幌平橋の手前辺りで支流が流れ込んでいます。精進川、アイヌ語名はオソウシです。オソウシとは「川尻に滝がある(川)」という意味です。その意味は上流にさかのぼるとわかります。幌平橋のところで上に上がって東に500メートルほど進むと、左手に豊中公園があります。その奥にオソウシが流れていて、川沿いに歩けるようになっています。かつてコンクリート三面張りの水路と化していましたが、1994年に自然に近づける改修を行って、心地よい空間に生まれ変わり、サクラマスの稚魚の放流も行われて、秋になると遡上も見られます。
この川沿いに歩いていくとやがて滝にぶつかります。
これがオソウシ(川尻に滝がある川)という地名の正体です(山田1965:129-132。実はこの滝までが本来のオソウシでした。そこから下流はサッポロ(豊平川)の分流だったのです。これまで歩いてきたのは中の島という地区ですが、その名の通りかつては豊平川の中州でした。それがこの滝から上流の部分が埋め立てられて地続きになったわけです。
いまでは数えるほどのサクラマスが遡上するだけですが、明治まではまったく違う風景がありました。次のような話が伝えられています。
移住当時9才だった松井新四郎さんが明治31年に「北海道毎日新聞」に語った話によりますと、移住当初開拓地がなかなか決まらず、何もすることがないので、父親と弟を連れて大きな水の音がするところへ行ってみようということになり、鎌や斧を持って出かけ、大木をかき分け、やっとの思いで崖を降りて豊平川(今の精進川のこと、当時は豊平川の分流だった)まで下ると、川の中は水の底が見えないほど大きな気味の悪い魚がうようよ泳いでいるのが見えました。松井さんは大喜びで、手に持っていた鎌でその魚をひっかけ、20匹も釣り(?)あげて、大骨折って持って帰り、皆に見せると、鮭という魚だと言って皆で鎌を持って取りに行き、そのうち鎌などで は面白くないというので、国から持ってきた麻糸を出し合って大きな網を作り、網で大量に取りはじめました。その頃は、一軒に20本や30本鮭が軒先に下がっていない家はなかったそうです。」(伴野卓磨2015「平岸の歴史を訪ねて 開拓編 第20回 開拓風景①」)
鮭がうようよ泳いでいたサッポロ!入植者が目にしたこの風景の中で、アイヌ民族は暮らしてきたのです。アイヌは鮭を「カムイチェプ(神の魚)」あるいは「シペ(ほんとうの食べ物)」と呼んで、川をさかのぼってきた鮭(いわゆるホッチャレ)を乾かして食料にしてきました。しかし開拓使は明治11年にサッポロ(豊平川)を含む石狩川支流での鮭鱒漁を一方的に禁止し、アイヌが伝統的な鮭漁をすると密漁となってしまいました。また明治以後の植民地化の中で、護岸工事や排水による水質汚濁が進み、鮭がさかのぼるサッポロの風景は失われていったのです。
参照文献
山田秀三1965『札幌のアイヌ地名を尋ねて』楡書房。