ペルー アヤクチョ

武力紛争で奪われた家族の記憶

「私には『父さんおめでとう』言う相手がいません」ヴラディミルロペスさん

証言者
ヴラディミル・ロペス・カラスコさん
(Vladimir López Carrasco)

生年月日 1981年6月17日
州 アヤクチョ
郡 ウアマンガ
地区 アヤクチョ
兄弟の数 7人
アンファセップ参加年 1995年
犠牲者および事件発生日
父、シメオン・ロペス・カンカハリ (1992年5月16日)

 当時、私達はウアマンガのアクチマイ地区で暮らしており、兄弟達は グアマン・ポマ・デ・アヤラ校の午後の部に通い、 母はマグダレナ市場でご飯を作って売っていました。その頃は、街中で頻繁に銃撃戦があったり街路に停めてある車に爆弾が仕掛けられたりと悲惨極まりない時代でした。学校に通っていた兄弟達は、危険を避けるために家には帰らず友人の家に泊まる日もありましたし、目立たないように敢えて1人ずつ帰宅するなどしていました。

 午後5時を過ぎると決まって銃撃戦が始まりました。ある日などは、兄弟の1人が怯えきった表情で帰ってきたこともあります。帰宅途中、サン・ファン・バウティスタ地区の役場付近を通りかかった際に爆弾の積まれた自動車が爆発したとのことでした。1990年に入ると自宅周辺の危険が増したので、私達兄弟は周囲が比較的安全なルイス・カランサ校に転校することにしました。それでも午後は危険だったので、午前の部に通いました。転校に合わせて、バジリオ・アウキ地区に引っ越しました。

 その頃になると、銃撃事件や失踪事件は街中の至る所で起こりました。ある日、用を足すために外に出た近所のおばさんが、流れ弾に当たって死んでしまいました。ピコタの丘では、しょっちゅう銃撃事件がありました。

 父は、ユラク・ユラク地区にある フランシスコ・ボログネシ校で教師を勤めていました。当時、父も防犯上の理由から自宅には帰らずに友人宅に泊まることがありました。ある土曜日、その日は学校対抗のスポーツ大会がありました。その日、父はトレーナーにスポーツシューズの格好で、午前9時過ぎに学校へと出かけました。スポーツ大会は、父が勤務する学校で開催される予定でした。

 午前11時頃、家の外で犬が吠え始めました。突然、帽子を被った私服姿の男女が 私達の家に乗り込んできたかと思うと、服の下に隠していた小さなビニール袋から拳銃を取り出して私と兄の頭に銃口を突き付けました。連中は、母に向かって父の身分証明書や顔写真を差し出すよう命じました。そして、家の中を隈なく物色しはじめましたが、探していたものは何も見つけられなかったようでした。その後、連中は外に停めてあったフォルクスワーゲンに乗り込んで去ってゆきました。私服姿で乗り込んで来た男女は計4人でしたが、結局彼らが誰だったのかはわかりませんでした。家が襲撃された時外にいた兄によると、2人が家に侵入し、1人が入り口で見張りをしていたとのことでした。

 その後、兄のヘクトルはすぐに父を探しに学校へと向かいました。学校へ到着して尋ねると、試合はサン・ラモン校で行われているとのことでした。兄がサン・ラモン校に向かうと、確かに試合は行われていましたがそこに父の姿はありませんでした。その日以来、父が家に戻ってくることはなく、なんの情報もつかめないままです。もしかしたら、学校に向かう途中に捕まって連れ去られたのかもしれません。その日は、私の父の他にも、マリスカル・カセレス校とメリトン・カルバハル校の教師が1名ずつ行方不明になりました。当時、私は12歳で中等学校の1年生でした。

 当初、私達は 父が永遠に消えてしまうなどとは思ってもみませんでした。ですので、後々の手続き等に困らないようにと、母は学校に父の休暇願を提出しました。母と兄のエクトルとウィリアンは、警察署、遺体安置所、刑務所など至る所で、父親を探して歩き回りました。弁護士にも相談に行きました。あそこで死体を見たと言われれば、現場まで行って探しました。セヘランブラス、ワタタスなど様々な所に探しに行きましたが、父を見つけることはできませんでした。

 その後、母がアンファセップの会員となり、私は兄弟と共にアンファセップの子ども食堂に通うようになりました。父を探していた兄弟達は食堂に来る時間がなかったので、私が彼らの分を自宅へと持ち帰りました。

 父が失踪してからしばらく経ったある日、授業を終えた弟のハイメと私は2人で家路についていました。家の近くに差し掛かると、地区の集会所の壁に沿ってたくさんの人々が並ばされていました。人々は、1人ずつ並べられて長い列をなしていました。家に戻った私達がもう1人の兄にその様子を話していると、兵士達が家に乗り込んできました。兵士達は、私達に断りもなく夕食用の料理や果物を貪り始めました。そして、学生服のままの私と弟のハイメを外へと連れ出しました。私達は列の先頭に置かれ、そのまま壁に沿ってヌエベ・デ・ディシエンブレ通りの角まで歩くよう命じられました。セナティの専門学校の辺りまで進むと、突然停電になり辺りが真っ暗になりました。すると、私達に命令を下していた兵士と電話公社を見張っていた兵士達が、ヌエベ・デ・ディシエンブレ通りとマリスカル・カセレス通りの交差点で銃撃戦を始めました。私達は列の前方にいましたが、 兄は私の髪の毛を引っ張るなり「逃げるぞ!」と叫びました。 私達は列を離れて走り出しました。その数分後、後方でダイナマイトが爆発しました。私達は、行く先も決めずにマグダレナ地区の方向へとひたすら走り続けました。ロス・ベンセドーレス・デ・アヤクチョ校に差し掛かったあたりで、1人のおばさんが、「はやく入って!」と私達を家に入れてくれました。そのおばさんは夕食をごちそうしてくれ、私達が落ち着くまで家で休ませてくれました。家に戻ると、憔悴しきった母が泣いていました。母は、帰ってきた私達を抱き寄せるとさらに激しく泣き出しました。

 父の失踪は、私達の生活に大きな影響を与えました。母はいつも泣いてばかりで、時には私達をないがしろにしてしまったこともありました。兄は、大学に入るために予備校に通っていましたが、父の失踪により勉学の意欲を失ったのか通うのをやめてしまいました。兄弟の1人がもう1人に向かってお前も親父を探せと言うと、「俺が探してないとでも言うのか!俺が傷付いていないとでも思っているのか!」と言って口論になり、兄弟げんかが絶えないようになりました。

 まだ幼かった妹のサリータと私は、そんな兄弟の姿を見ては悲しくなって泣きだしました。その後、母は市場で商売をするようになりました。長兄は酒を飲むことを覚え、酔って帰ってくるたびに私達を殴りました。殴られるたびに、父がいてくれればと思うようになり、家族が崩壊してしまったことに対する怒りと、以前のような家族関係を取り戻せないことに対する悲しみに、私は苦しめられました。

 そんな家族の姿を見て、私は仕事を探し始めることにしました。ある日の午後、私はパン屋の前で長い間座っていました。外に出て来た店主に、「おじさん、手伝いたいんだけど」というと、店主は快く受け入れてくれその日の午後からパン屋の作業を手伝うことになりました。仕事が終わると、お金で払うのがいいか、それともパンで払うのがいいかと奥さんに聞きかれたので、私は、「パンでお願いします」と答えました。

 たくさんのパンを持って帰った私に母はびっくりして、「どこからこんなに沢山のパンを持ってきたんだい?」と言いました。私は、石窯でのパン焼きを手伝ったことを母親に伝えました。次の日、兄のハイメを誘って共に働きに出掛けました。しばらくは2人で働いていましたが、長兄にも声を掛けてやがては3人で働くようになりました。そのうちの1人は、今でもパン焼きの仕事を続けています。

 アンファセップの子ども食堂では、エーデル、ソニア、フェルナンド、エフライン、パト、そして今は亡きロランドをはじめ沢山の仲間に出会いました。アンファセップでは、先生達がレタブロ(アヤクチョ地方の民芸品)の製作や絵画、ペインティングなどを教えてくれました。そのおかげで私は絵が好きになり、家に帰っても絵画やペインティングを楽しむようになりました。1度などは、みんなで大学の壁に大きな絵を描いたこともありました。

 その後、夜間に働くようになったことでアンファセップに通わなくなってしまいました。日中はすごく眠く、午後になると授業に出なければならなかったので、活動に参加するのが難しくなりました。その後、パン屋での仕事を午前中に切り替えましたが、変わらず午後は学校に通っていたのでこども食堂に通う時間はありませんでした。

 その後、パン屋が少し離れたところに移転してしまいましたが、変わらず働き続けました。ですが、ある日パン屋に向かう途中警察に捕まってしまい、半ば強制的にキカパタの兵舎で兵役に付かされることになりました。当時はまだ兵役が義務の時代で、多くの兵士を必要としていたために断ることができませんでした。

 私は、ロス・カビートス兵舎で2年間の兵役義務を果たすことになりました。ある夜、徹夜で警備を担当している最中に、昔の記憶が頭をよぎりました。私は軍隊を憎んでいました。もしかしたら、父を消したのはこいつかもしれないと思うことが何度もありました。同様に、多くの人々を失踪させたセンデロ・ルミノソのことも憎んでいました。銃の扱いを覚えた時には、この銃でセンデロを皆殺しにしたいという衝動に駆られました。兵舎では、訓練の一部と称して上官や先輩兵士からなんども殴られました。殴り返したいと思ったことは何度もありました。

 その当時のアヤクチョは、危険地域に指定されていました。兵舎での銃撃訓練では、子どもの頃を思い出して辛くなることもありました。最初の休暇で帰宅した時、私は母の腕の中で子どものように泣きじゃくりました。母はそんな私の心情を理解してくれました。兵舎での虐待は本当にひどく、時に耐えがたいものでした。

 兵役を終えた後、私はガソリンスタンドで働き始めました。大学に入ろうと思い立ち予備校に通い始めたのですが、そこでロランドと再会しました。彼は、アンファセップに戻ってくるよう私に勧めましたが、もう通わなくなって大分と年月が経ってしまっていたので、アンファセップからは少し心が離れてしまっていました。再会からほどなくして、不慮の事故でロランドは亡くなってしまいました。

 その後、子ども食堂に通っていた頃よく遊んでいたエーデルと出会いました。彼もアンファセップに戻るよう私を誘いましたが、言い訳をしてはぐらかしていました。ですが、昨年のアンファセップの記念日には、思い切って顔を出してみることにしました。そこにはたくさんの若者が参加していましたが、私が知っているのはエーデルだけでした。それでも、見知らぬ私をみんなが快く受け入れてくれました。私は、参加者に食事や飲み物を配るのを手伝いました。そして、その日を境にアンファセップに再び通い出すようになりました。

 今は大分と気持ちが落ち着きましたが、いっそ父のことを忘れてしまいたいと思ったことも以前にはありました。ですが、それは無理なことで、何かの折にはいつも父のことを思い出します。父の日が来ても、私には「父さんおめでとう」と言う相手もいなければ、死者の日に花束を手向ける場所もありません。みんながやっているように、墓の前で祈ることすらできないのです。

 今でも、突然恐怖に襲われたり、日常の些細なことをこなすのに困難を感じてしまうことがあります。それは、危険を避けるために家の中に閉じこもる生活が長かったことに原因があると思います。当時は、常に恐怖心を抱えており、街を自由に歩くことすらできませんでした。家の中で遊んでいても、常に屋外で爆発音が鳴り響き、いつ手製の爆弾や手りゅう弾が投げ込まれやしないかと怯えていました。

 現在、私は大学で会計学を専攻しており間もなく卒業を迎えます。いずれは、アンファセップの経理事務などで、自分の専門を生かすかたちで貢献できればと思っています。いつかは、アンファセップが経済的に自立できればと思っており、その日は必ず来ると思っています。そのためには、今から準備を進めて行かなくてはなりません。現在、私は兄弟と共に暮らしています。母は父が失踪して以来、故郷のサルワ村で暮らしています。

 一方で、母の願いを叶えるために、兄弟が人として、専門家として立派な大人になれるよう支えあっていければと思っています。母は、すべての子ども達が、将来何らかの専門を身に着けた大人になってくれることを夢見ています。

 私は、みんなと同じように起こったことに対する公正な裁きを望みますし、政府には個人への賠償を実現してほしいと思っています。たとえ金銭的な援助ではなくても、親を失った子ども達に職業訓練支援などを行ってもらえればと思います。あの時代に子ども食堂で過ごしたすべての子ども達が戻ってきて団結すれば、正義を勝ち取ることができるのではと思っています。子ども食堂で育ったみんなは、大切な仲間であり兄弟であると思っています。

2022年03月19日更新