「大事なことは被害者に留まらないことです」ダニエル・ロカさん
証言者
ダニエル・ロカ・スルカさん
(Daniel Roca Sulca)
生年月日 1982年9月10日
州 アヤクチョ
郡 カンガージョ
区 ロス・モロチューコス
集落 インカラハイ
兄弟の数 6人
アンファセップ参加年 2003年
犠牲者と事件発生日
父、ヴィクトル・ロカ・パキヤウリ (1983年6月3日)
母、フリア・スルカ・オロスコ(1983年6月3日)
生後6ヶ月の妹 (1983年6月3日)
あまりにも幼かったためにあまり記憶がないのですが、私たち家族はインカラハイの村で、他の村人と同様に農業で生計を立てていました。数頭の家畜も所有していました。私の両親はキリスト教福音主義の熱心な信者でした。両親は、センデロ・ルミノソや軍隊とは何の関わりもありませんでした。父のもとには、センデロ・ルミノソから2度に渡って集会に参加するよう招待状が届いていました。私の兄がそれを受け取ったのですが、父が問題に巻き込まれるのを恐れて、いずれの招待状も父に渡しませんでした。父の返事がないことしびれを切らしたセンデロ達が私の家を襲ったのは、1984年のことでした。彼らは、くるみ色のポンチョにゴム長靴の出で立ちで、女性達は男装をしていました。父と母は、センデロによって連れ去られました。母は生後6カ月の妹を背負っていました。
深夜の12時頃だったそうです。私はあまりにも幼すぎて事件のことを覚えていませんが、今でも当時のことを思い出そうとすると心の中に火花のようなものが飛び散ります。両親が連れ去られた後、私は兄弟達と共に家に閉じ込められてしまいました。センデロがいなくなったのを見計らって、兄が窓を割って外に飛び出し周囲の村人に助けを求めました。翌日、祖父と叔父が両親を探し始めました。叔父は、ほとんど1日中両親を探し続け、夕暮れ時になってようやく両親を見つけました。父は木からロープで吊るされた状態で、母は石や斧で殴られた後に膣に棒を突き刺さされた状態で殺されていました。妹の姿はそこにはありませんでした。川に投げ捨てられてしまったのか、それとも生きたままセンデロに連れ去られたのか、現在に至るまで妹の行方はわかっていません。
両親の遺体は、その日のうちに馬に乗せられてモロチューコスまで運ばれました。祖父や叔父、そして地域の村人達が葬儀の手伝いをしてくれました。村長や判事達は、この事件に関して何の対応もしてくれませんでした。夜になると、私達家族と村人達が両親の遺体を墓地へと運びそのまま夜を明かしました。そして、夜が明けてから墓穴を掘って両親を埋葬しました。その後、検察庁の支局に出向いて事件の告発を行いました。埋葬の翌日、祖母は私と兄弟を連れてヤナマルカのウチュイコチャ村へと移り住み、そこで私達を育ててくれました。
事件から1年も経って、検察官が両親の遺体を掘り起こして検死を行いました。検死の結果、母は頭部外傷で死亡し、父は首を吊られたことによる窒息死であったことが判明しました。両親は、とても残酷なやり方で殺されました。 一通り調査が終わると、再び同じ場所へと埋葬しました。
今になって思うと、両親はセンデロ・ルミノソから報復を受けたのだと思います。私の父は、センデロ・ルミノソと軍隊の双方のやり方を批判していました。どちらのやり方も、著しく人権を侵害するものだったからです。父は福音主義者として、神の言葉に照らし合わせながら、彼らの行いを非難していました。
もしくは、父のことを妬ましく思っていた村人がセンデロに虚偽の告発を行ったためではないかとも考えられます。父は、数年間リマで働いていたので、稼いだお金で村にトタン屋根の家を建てることができました、さらには、少なくない数の羊や牛、馬などを飼育しており、パハリスカのプナには比較的豊かな牧草地を所有していたため、村人から妬まれていたのかもしれません。
私は、両親の殺害に関わった人々を探し続けています。しかし、そのうちの何人かはすでに亡くなってしまいました。1人、おそらくリマで暮らしていると思われる人物については今も調べ続けています。彼は、私の両親の殺害に直接関与した人物であり、さらに失踪した私の妹に関する情報を持っているかもしれないのです。
私達が幼い頃、祖母の家にしょっちゅうセンデロ達が来ていたのを覚えています。センデロ達は、常に私達のことや離れて暮らす祖父の様子を聞いてきました。そのうちの1人が言うには、本当は私達を皆殺しにするつもりだったとのことです。そうしておかないと、センデロに恨みを抱きながら育った子ども達が、大きくなった時に復讐に来るかもしれないと考えたからです。ですが、彼らは私達を殺すことはできませんでした。村人は、私達がセンデロに狙われていることを知っていました。私の祖母は福音主義者で、村人からとても信頼され慕われていたので、彼らが私達のことを常に守ってくれていたのでした。
その後も、しばしばセンデロや軍隊がやってきては、1番育ちのいい家畜を無断で奪っていきました。家畜は少しずつ数を減らし、最終的には全くいなくなりました。当時、私は8歳で、兄弟と共にとても苦しい生活を強いられていました。私達は幼くして働かなければなりませんでした。
8歳の私は、村人の畑でジャガイモ堀りの仕事を手伝いました。1日働いて、わずか3ソーレスの賃金を受け取りました。ですが、幼い私は力が弱く、大人の小作人達がさっさと仕事を終えて帰った後も1人残って自分の持ち分をこなしていました。時折、やさしい人達が私の掘る分を助けてくれたりもしました。時には、たった1皿の食事のためだけに仕事に向かうこともありました。
姉達は牛の放牧を手伝い、その報酬としてジャガイモやトウモロコシを受け取っていました。貧しさゆえに学校に通うこともできず、姉達は1日中働いていました。それでも私だけは、働きながらも学校へ通い続けました。その後、上の姉が15歳で、下の姉は17歳でそれぞれに嫁いでゆきました。そして私は、重い病気を患っていた祖母と実質2人きりになっていまいました。インカラハイに暮らし続けていた祖父は、酒に溺れてしまい全く役に立ちませんでした。
祖母が数頭の牛を飼っていたので、私は乳しぼりとチーズ作りを覚えました。また、保存用の大麦の脱穀や麦を炒ることも覚えました。スープを作るのは時間がかかり、犬のためのエサも作らなければなりませんでした。こんな感じで勉強する時間などなく、しばらくの間学校に通えなかったこともありました。
私は、いつもゴム製のサンダルを履いていて、それが恥ずかしかったのを覚えています。初めて買ってもらった靴もゴムでできた靴で、それを履いて学校に通っていました。それを見た同級生達に、貧乏であることをからかわれたりもしました。
ですが、めげずに学校へ通っているうちに少しずつですが成績も上がりはじめ、卒業時には、成績上位者としてクチュカンチャの学校で表彰されました。その後、12歳から5年間の中等学校に通い始めましたが、経済的な理由で第3学年までしか通えませんでした。そして、16歳のときに軍隊に入ることを決めました。入隊を決めた1番の理由は、入隊すれば食べ物や制服が無償で与えられるからでした。ですが、心の奥底では、銃の扱いを覚えてセンデロを殺したいという恨みの感情を抱いていたからというのも、偽らざる事実です。
最初に兵舎で経験したのは、先輩兵士達によるひどい暴力でした。多くの若い入隊者が、暴力に耐えられずに脱走しました。耐えきれなくなった兵士達の両親や親戚がやってきては、幾ばくかのお金支払って除隊させてもらっていました。私の祖父も、お金をもってやってきたくれたことがあったのですが、その頃の私は兵役を続けると決めていたので村には帰りませんでした。私は、3か月に渡る日々の訓練に耐え抜きました。その後、セルバでのパトロール中にセンデロの一群に出くわしたことがありましたが、神様のご加護のおかげで私は無傷でその場を乗り切ることができました。その戦闘では、隊長が亡くなりました。決して悪い兵士ばかりではなく、なかにはとても心の優しい兵士もいました。
軍隊のキャリアを歩もうと考え始めていた私は、勤務態度も良好で、何事にも精力的に取り組んでいました。一方で、他のキャリアを歩んでみてはどうかと私の背中を押してくれる先生方もいました。兵舎にいる間、私は中等教育を終える機会を得、専門学校にも通うことができました。
2年間の兵役義務を終えた後も、志願したうえでパウサやプキオの駐屯地で勤務を継続しました。ある時、15日間の休暇を得た私は、生まれ育ったウチュイコチャの村に戻ってみることにしました。家に着くと、そこには以前と同じような貧しさが残っていました。扉は閉まったままで、祖母はすでに亡くなっていました。病気を患った祖父は、リマの家族のところに身を寄せているとのことでした。ガリガリに痩せ細った牛が藁を食んでおり、痩せこけた4匹の犬が力なく地面に伏していました。暮れ始めた空に、誰もいない家。その時、私の目から涙がこぼれ落ちました。その日から私は、兵舎に戻るのをやめて、日干しレンガを作って家の改築を始めました。
その後、兵役中に学んでいた衛生検査技師の勉強を再開しようと思い立ちました。まずは、ウアマンガで専門学校を探しましたがすでに生徒の募集は終わっていました。その後、ヴィクトル・ファハルドにある専門学校で面接を受けたところ合格し、晴れて衛生検査技師の勉強を始めることになりました。
卒業後、さらなる専門を身に着けるため、私は奨学金を求めてウアマンガにやってきました。最初に、ある専門学校を見つけ奨学金があるかどうか尋ねましたが、曖昧な返事しか帰ってきませんでした。最終的には、政治学を学ぶための塾に通うことに決めましたが、受講生のほとんどは大学生で、そのなかに大学教授の子息も何人か交じっていました。私1人だけが農家の出身でした。
同時に、アンファセップの活動にも参加するようになり、そこでエンベルと知り合いました 。 彼は、アンファセップ青年会のリーダーを勤めており、「もし君が参加してくれたなら、いつかリーダーに選ばれるはずだよ」と言ってくれました。以来、アンファセップに通いながら、失踪被害者の親族である女性達の活動を少しずつ理解していきました。
私は現在、地域にあるいくつもの小さな団体からなるCORAVIP(政治的暴力の犠牲者によるアヤクチョ地域調整委員会)のリーダーを務めています。私は農家の出なので、地域住民の役に立てるこの仕事をとても誇りに感じています。同様に、CONAVIP(政治的暴力の犠牲者による全国調整委員会)では副代表を務めています。この団体に関しては、全国組織としての活動をさらに展開していく必要を感じています。
現在の私は、多くの役割と責任を担っています。しかし、これらの役割を遂行するにあたって、経済面やロジスティック面における第三者からの支援が不足しています。同時に、自身の専門を活かした職業に就けていないという意味で、自分の人生をないがしろにしていると感じることもあります。
私は、誰の助けも借りず自らの努力で衛生検査技師の資格を取得することができました。そんな私でも、時折泣いてしまうことがあります。母の日や父の日は、私にとってとても空虚で孤独を感じる時間です。
17歳で故郷を離れた姉のベルタのことはよく覚えています。姉は、両親が殺された後、私達を支えるためにリマに出稼ぎに行きました。ベルタは私達にとって母親のような存在で、時折リマからチョコレートやお菓子を送ってくれました。姉はリマのエル・アグスティーノ区にあるバレーボールチームに所属し、2部リーグで活躍していました。ある日の試合中、相手チームが投げ捨てたバナナの皮で足を滑らせてしまい、運悪く脳溢血を起こして亡くなってしまいました。姉の死によって、私の心の中では日を追うごとに虚しさと孤独感が増していきました。自分の無力さを呪い、早く大きくなって力をつけたいと思うようになりました。私は、たくさんの苦しみを味わいましたが、もし父と母のことをよく覚えていたら、今よりももっと苦しんでいたことでしょう。私には両親との思い出がほとんどないので、上の兄弟達よりも苦しみが少ないのではと思います。
暴力のせいで、私達家族の未来は奪われてしまいました。もし両親が生きていたなら、私は一流の国立大学、もしくは私立大学で高度な専門知識を身に付けることができていたかもしれません。もし経済力があったならば、姉達の生活水準も今とは違ったものになっていたことでしょう。現在、姉達は読み書きのできない農民に留まっていますが、私は彼女達のようになりたいとは思いませんでした。
孤児であるがゆえに、貧しさに留まり続けなければならない理由などありません。私は、より恵まれた人達に勝たなければならないと、常に自分に言い聞かせて実行してきました。レストランで食事をしていたり、おいしそうにジュースを飲んでいる若者を見るたびに、無力感を感じたこともあります。そんなときは、彼らから目を背けて家へと戻りました。家では、スープと茹でたジャガイモが待っていました。それが私の食べ物であり、私の人生だったのです。
社会活動だけでなく、知的水準を高めることで貢献できることもたくさんあると思っています。努力次第でさらに上のステージに立つことができると思いますし、そういった立場から、例えば行政府のリーダーになるなどして犠牲者のために働くことができればとも思います。ですが、そのような職に就くためにはさらなる専門知識を身に着ける必要があります。(※実際ダニエルは、2019年にアヤクチョ州カンガージョ郡の市長に就任している。)
衛生検査技師では政策を動かしていくことができませんが、医者や弁護士になればより社会に貢献できると思います。時には、自分が無力に感じることもありますが、私にもやればできるのではと思える場面もあります。未来に向かうためには、私達は被害者に留まり続けてはだめだと考えます。確かに、私は親や兄弟を失いました。しかし、ここからどう動き出すのか、未来に向けてどのような貢献ができるのかが大事になってくると思います。私達は、被害者だからと座り込んで泣き続けるのではなく、自分達の力で新たなものを生み出す方法を学ばなければならない。このような考えを、他の若い人達にも広めていきたいと思っています。
現在、午前中は依頼を受けて私立のクリニックを補助していますが、並行して他の仕事も探しています。私は、家電製品の修理を行うこともできます。今は、記憶博物館のガイドも手伝っています。ですが、今後はもっと安定した仕事を探さなければなりません。
できたら社会保険病院や大きなクリニックなどで働きたいです。時々、とても寂しくて気分が落ち込むことがあります。そんな時は、人権や医療に関する文献を読んだりして時間を過ごします。私達は、若者として、国内武力紛争の被害者として、二度と同じ悲劇を繰り返さないよう努力しなければなりません。飢えに苦しんだり、子どもが親を失ったりなどという悲惨なことは、二度と起こってはならないのです。そのためには、地方自治体、州政府、そして中央政府が相応の役割を果たしていく必要があります。同様に、私たち個人にもなんらかの貢献が求められます。
私達個人が行動を改めない限り、暴力は繰り返されるでしょう。アヤクチョが抱える現実、国が抱える現実、そして被害者が抱える現実は、いったいいつになったら改善されるのでしょうか。私達の母親が、真実、正義、賠償を得られないまま死んでいくのはとても悲しいことです。
私達の世代になって、正義と償いのために何かを成し遂げられたとしても、それでは遅すぎるのです。二度と同じことを繰り返さないためには、平和を維持していかなければなりません。私は、政治的な行動の取れる被害者の代表でありたいと考えています。政治の舞台に立って、賠償を求めていかなければなりません。犠牲者への賠償がないままでは、私たちは一生、街頭でただ行進するだけの原告にとどまってしまいます。
今、私が求めているのは、個人レベルでの経済的賠償です。私は、自分の立場を通して常に声を上げ交渉を続けて行くつもりです。私達の人生設計は、国内武力紛争によって否応なしに奪われてしまいました。被害者が人生を立て直すためには、各家庭への経済的支援が不可欠となります。その資金を元手にビジネスを始めたり、農業技術を向上させたりすることが可能になると思います。
読み書きのできない姉達も、賠償を待っています。私達は、多額の賠償を請求しているわけではありませんが、あまりにも少額であれば許容できません。ペルー国内には何千もの被害者が存在しており、殺された人、失踪した人、拷問を受けた人などを合わせると、その数は6万9千人以上にも上ります。人権侵害を行ったのは、センデロと軍隊の双方です。これまでの軍隊は、戦争のためにだけに訓練されていたので、人権とは何かを知ることすらなかったのです。私達は、同胞同士で武器を手に互いに殺し合ったのです。