ペルー アヤクチョ

武力紛争で奪われた家族の記憶

写真集 『痛みの帰郷』イントロダクション

はじめに

 本書を構成する写真の数々は、ペルーのメディアがほとんど取り上げないテーマ、すなわちペルーにおける政治的暴力の時代(1980年〜2000年)に殺害された人々の遺骨発掘捜索、そして人物の特定と遺族への遺骨返還作業について、新聞紙面を通して報道することを目的として撮影されたものです。(※ここに掲載する写真は、ミゲル氏が現場の人びとの許可を得て撮影したものです。)

 当時、ラ・レプブリカ紙でフォトジャーナリストとして働いていた私は、内戦の犠牲者となった人々の遺体発掘捜査に関する取材を提案しました。その提案は受け入れられ、2013年から2016年にかけて、この写真集に収められている写真が記事と共に新聞紙面に掲載されることになりました。

 私ミゲル・カストロ・メヒーアは、2013年11月より検察庁の科学捜査専門チームに同行し、国内の遠隔地における遺体発掘捜査の様子を連日に渡って撮影しました。これが私にとっての同テーマに関する最初の取材となりました。

 虐殺は、アヤクチョ州南部のラ・マル郡チュンギにある人里離れた山間部において起きました。真実和解委員会が2003年に提出した報告書には、チュンギはペルー史上最も痛ましい暴力事件が起きた地域であると記されています。私は、14日間にわたって法医学専門家の作業を取材することで、その悲惨さを目の当たりにしました。

 2週間の捜査の結果、56体もの遺体が発掘されました。私は、そのうちの30体の発掘捜査に立ち会っただけなので、この本に収められた写真は、チュンギで起こった大虐殺のごく一部を伝えることしかできていません。なぜなら、この山の一帯には、ペルー国軍と反政府組織センデロ・ルミノソによる紛争で殺害された、推定1,384名の遺体が埋められたおよそ300もの遺体投棄現場が未だに手付かずのままだからです。ですが、この1,384名という大量の犠牲者の数も、ペルー史上最も悲惨な時代の犠牲者となった、およそ7万人もの死者・行方不明者に比べれば少なく感じてしまうほどです。

 虐殺を目の当たりにした人々の証言を直接耳にし、科学的捜査によって特定される犠牲者の死因を知るにつれて、私はこの地域において目も覆いたくなるような残虐な行為が繰り返されていたことを知るに至りました。

女性や子ども達の殺害

 私が最初に法医学チームと共に訪れたのは、スイルルパンパと呼ばれる場所で、そこはチュンギの人里離れた緑が鬱蒼と茂る山の中に位置していました。その後の死因究明調査によって、発見された15体の遺体は、2歳から16歳の未成年者10名、成人女性2人、性別が特定できない成人3名のものであることが明らかになりました。

 チュンギでの発掘に立ち会った証人は、アラン・ガルシア政権下の1987年5月に、彼らの親族がセンデロ・ルミノソのメンバーと見なされたために、近くのモジェバンバ村に駐留していた兵士や武装した農民達に殺されたのだと証言しました。

 検察の捜査資料によると、それぞれの被害者は、頭部を切断された後にそれぞれの頭を挿げ替えた格好で埋められていたとのことでした。さらに、死因究明のための調査を通して、見つかった遺体のうち6つの頭蓋骨から、後頭部への銃撃による外傷が認められました。

 また、チャウピマヨでは5つの遺体投棄現場が見つかりました。そこでの発見は、目を覆いたくなるようなものでした。ひとつの遺体投棄現場からは、1歳から10歳までの子ども達が6人、そして成人女性4人の計10名の遺体が見つかりました。2014年に法医学専門家が行った分析により、彼らは軍によって撃ち殺されたことが明らかになりました。

 別の4つの現場からは計8名の遺体が発見されましたが、そのうち3名は子どもで、鋭い刃物によって脊椎骨に傷が付くほどに深く喉をかき切られていました。事件の目撃者である村人が、この場所での虐殺は1986年10月頃に軍によって行われたものだと断言しました。

 同地域では、別の法医学チームも遺体発掘捜査を行っていました。20名の専門家達は、10日間の現地捜査を通して19か所の遺体投棄現場を特定し、26名の未成年者、18名の女性、6名の男性、そして6名の性別不明の成人遺体を発見しました。

愛する家族の帰郷

 私は、発掘に立ち会った親族と接することで、科学捜査による遺骨返還の重要性を実感すると共に、救出された遺体の1つ1つが示す許されざる過去を知ることができました。2014年10月、私は再びアヤクチョに戻り、法医学専門家達によってペルー各地で救出された65名の遺体引き渡し作業を撮影し、記事をまとめました。遺体引き渡しのセレモニーは、センデロ・ルミノソ誕生の地であるウアマンガ市で行われ、多くの家族が犠牲者の遺骨を引き取りました。75歳の悲しみを携えた女性、アンヘリカ・クシ・ディアスは、センデロ・ルミノソによって殺された娘と孫娘の遺体を引き取るために、ベレン・チャピ村からウアマンガまで2日間かけてやってきていました。

 翌日、私は3つの棺を運ぶ2人の女性に同行し、アヤクチョ州アヤワンコ区にあるワルワという名の集落を訪れました。村人であるエウセビア・パロミノ・アロニは息子の遺骨を、ディオニシア・ワマン・キスペは兄の遺骨を、共にウアマンガから村へと運びました。私達は、穴だらけの山道を小さな乗り合いバスに揺られながら半日かけて移動しました。村の自宅にて通夜を執り行った後、親族は山の上にある墓地に遺骨を埋葬しました。当時、犠牲者達は共に村の自警団に所属していました。センデロ・ルミノソの村への侵入を防ごうとしたところ逆に捕まってしまい、彼らはテロリスト達の手によって処刑されました。

 2016年には、ウアマンガ市から4時間のところにあるハノという小さな村で、40名の犠牲者の遺骨が家族に返還されました。法医学者達は、この村で唯一の公共施設である小学校の教室を、死者を弔い遺骨を引き渡す場所として用いました。

 ハノ村の大虐殺は1991年に起こりました。村を襲ったセンデロ・ルミノソは、村人達を教会の中に押し込めて銃殺した後、建物に火を放ちました。遺骨を引き取った親族の脳裏には、当時の忌々しい記憶が否応なしに蘇ったことでしょう。

 ハノ村での埋葬に立ち会った2日後、私はアヤクチョ州のワンタを訪れました。ここでは、街のスタジアムに駐留していたペルー海軍によって強制連行された後に殺害されたクルチャカ村の10名の犠牲者の遺骨が、法医学の専門家達によって引き渡されました。これら10名の遺骨は、未だ身元が特定されていない40名の遺骨と共に、プカヤク渓谷において発見されました。

 海軍による虐殺の具体的内容に関しては、真実と和解委員会の報告書に記されています。この虐殺事件は、1984年、フェルナンド・ベラウンデ・テリー政権時代に起こりました。この時代には、ペルー現代史における最悪の虐殺事件が、アヤクチョ州の各地を中心に頻発しました。1983年から1985年にかけては、ロス・カビートス兵舎において、少なくとも136名の市民が、強制連行された後兵舎内において超法規的に処刑されました。

 私は、この写真集が、記憶の喪失によって現代ペルー史が蝕まれることを防ぎ、内戦の影響を最も受けたアヤクチョの人々が、過去に経験し、そして今も経験し続けている幾多の悲劇を、すべてのペルー人に知ってもらうための入り口となってくれることを願ってやみません。

ミゲル・カストロ・メヒーア プロフィール

 ペルー・カトリカ大学卒のジャーナリスト。アプ・エディトリアル社代表。2004年より、ラ・レプブリカ紙をはじめとしたペルーの主要メディアに勤務。ジャーナリストとして、社会問題や生活文化をはじめとした写真撮影と執筆活動に従事し、国内外のメディアを通して発表を続けている。

 

 写真の提供は、エル・パイス紙(スペイン)、ガーディアン紙(イギリス)、ソーフット紙(フランス)などペルー国外のメディアにも及んでいる。ユネスコ、国連、米州プレス協会、在ペルー米国大使館など、国外の多くの機関からもその功績が認められている。
 主な写真集に、「痛みの帰郷(El Dolor del Retorno)」(2017年)、「Cirugía Antes de Nacer」(2020年)、「Qoyllurit’i, los hijos de la montaña sagrada」(2021年)がある。

ミゲル氏の日本へのビデオメッセージ

2022年03月22日更新