「一番辛かったのは、幼い頃に両親の温もりを感じられなかったこと」アニバル・カジョさん
証言者
アニバル・カジョ・ゴンサレスさん
(Anival Cayo Gonzales)
生年月日 1981年11月29日
州 アヤクチョ
郡 ヴィクトル・ファハルド
区 カジャラ
兄弟の数 6人
アンファセップ参加年 2012年
犠牲者と事件発生日
父、ポンシアノ・カジョ・パロミーノ (1988年5月27日)
私はカジャラ村の出身です。家族は小麦やトウモロコシの畑を所有し、僅かな家畜を育てることで慎ましやかに日々を過ごしていました。私が2歳の頃に、母親は病気で亡くなりました。事件が起こった時、私は6歳でした。成人した兄弟達は街に移り住んでおり、村に残っていたのは、父親と継母、そして16歳の兄と11歳の姉でした。
1988年5月11日の明け方ごろ、隣村の方で大きな爆発音がしました。幼い私は、そのとき隣村で何が起こっていたのかを知りませんでした。その翌日、私は、トウモロコシの収穫をしていた父親と兄のもとへ、継母と食事を運んでいました。なにも変わらない、普段通りの時が流れていました。日が暮れかかった頃、馬に乗った兵隊の一群が村の方へと向かってゆくのが見えました。
村人のひとりが、息を切らせながら畑の方へ走ってきました。村にやってきた兵隊達が、意味の分からないことを口走りながら村人を殺していると彼は言いました。とても嫌な予感がしました。兄は、父親に畑の脇にある洞穴に隠れるように言いました。しかし、何も悪いことをしていないのになぜ逃げないといけないのだと言って、父は農作業を続けました。
兵士達が畑の方へやってきました。あたりで農作業を続けていた村人をすべて捕まえて、1か所に集めました。父親もその中にいました。兵士達は、一人ひとりの名前を確認すると、まるで動物を殺すかのように、取り上げた鎌や山刀を振りかざして村人を殺しはじめました。ある者は腹を切り裂かれ、ある者はこめかみを銃で打ち抜かれました。遺体は、サボテン畑や傾斜の茂みに投げ込まれました。兄は、雑木の陰で執拗に踏みつけられ、蹴り飛ばされていました。
結果として、30名近い村人が殺されました。兵士達は、次にここへ戻って来た時に残っている者がいたら全員殺すといいました。私達は、父親の遺体を運ぶことさえままならず、家畜をすべて放して村に戻りました。私達は泣き崩れ、それから意識を失ったように眠りました。
翌日、数機のヘリコプターが村に飛んできました。ヘリから降りて殺戮現場に向かった人々の中に、当時の大統領アラン・ガルシアの姿を見たと多くの村人が言っていました。その後、村で起きた殺戮は、センデロとの戦闘で生じた正当防衛であったと発表され、長きに渡って真実が国ぐるみで隠蔽され続けました。メディアに真実を証言した村人達は、何者かの手によって次々と誘拐されたり殺害されたりしました。殺戮に加わった兵士達は、誰一人として罪に問われることなく現在に至っています。
事件から2日後、当時空軍で働いていた兄が私達をリマへ連れてゆくために仕事を辞めて村へやってきました。11歳の姉は、勉学を続けさせてもらえるという条件で、使用人としてある家族の元へ送られました。私は、空軍を辞めた兄と共にリマで暮らしはじめした。
リマでの生活は、経済的にとても苦しいものでした。兄は、昼夜を問わず働き続け、心身ともに疲れ切っていました。兄は、ことあるごとに私を殴りつけました。外出して他の友達と遊ぶことさえ許してくれず、テレビも見せてくれませんでした。それでも私は、兄を憎む気にはなれませんでした。
私は、成人するまでの12年間、毎日のように働き続けました。主に、中央卸売市場で野菜の荷運びを手伝って稼ぎました。家に帰らず、市場の脇で夜を過ごすこともありました。夏には、新学期の学用品を買うためにアイスを売ってお金を貯めました。一度、夜中の2時から20時間近く働き通して稼いだお金を帰宅途中に奪われたことがありました。それからしばらくは、護身用のナイフをポケットに偲ばせて働きに出ていました。
ある夜、中央市場に兄の作業道具を運んでいたのですが、眠気に耐えられずに店の軒先で眠り込んでしまいました。目が覚めたとき、兄の道具はすべて盗まれていました。兄は、道具をみつけるまでは絶対に戻ってくるなと私にいいました。私は、どうしていいかわからず盗まれた場所へと戻りました。
途方に暮れて泣き腫らしていると、近寄ってきた警官が「なぜ泣いているんだ」と私に尋ねました。動揺していた私は、とっさに「迷子になった」と嘘をついてしまいました。すると、警官は私を派出所へと連れてゆき、そこから児童養護施設に移送されました。施設では、テレビも自由に見せてもらえたし、他の子ども達とも遊べたし、とても楽しくてもう家には帰りたくないと思いました。ですが、ある日本当のことを話すように施設の職員に諭され、結局は兄の元へと戻ることになりました。
人生は多くの人が思っているほど簡単ではありません。時には、泣き腫らしたこともありましたし、何度も自身の運命を恨みました。多くの人が感じたことがないような悲しみを、いつも持ち続けてきました。ですが、人生とはそういうものです。内戦の被害を受けた多くの子ども達が、「もし父が生きていたら、このような人生を歩まなかっただろう」と思っていることでしょう。政府は、この内戦に限らず歴史上多くの場面で罪のない人々の基本的人権の侵害を繰り返してきたと言う事実を決して認めようとはしません。これは、私が実を持って体験した紛れもない真実です。私達は、理不尽にも愛する家族を失った同胞達のために、正義と真実、そして尊厳ある賠償を早急に勝ち取らねばなりません。
辛い子ども時代でしたが、年長の姉ペラヒアが与えてくれたチャンスのおかげで、私は今、法学の学位取得を目の前にしています。無論、大学での授業と並行して姉が勤める製粉工場でたっぷり働かされたので、ただではありませんでしたが。一時期は、人生に何の希望も見出せませんでしたが、そんな時も姉のフェリシアナは私を支えてくれました。フェリシアナは私が愛してやまない家族の1人です。私が勉学の機会を与えられたとき、周りの人達はきっと挫折するだろうと思っていたようですが、人は必要に駆られればどんな目標でも達成しうるのだということをこの身をもって証明しました。私は、子どもの頃から市場の脇で夜を過ごして12時間以上野菜の積み下ろし作業を手伝うなど過酷な生活に耐えてきたので、どんな困難でも乗り切れるという自信があります。
たとえどこにいようとも、両親はいつも私を見守ってくれていることを私は知っています。うまく説明はできませんが、私はいつもそう感じるのです。アンファセップ青年会の代表を務め、女性達による行方不明者の捜索と、真実、正義、賠償を求めた絶え間ない闘いに参加することができたのも、私の人生における素晴らしい経験でした。愛する家族を失ったすべての人達のために、人権の擁護と人々への人権意識の普及を今後も継続したいと思っています。このような機会を与えてくださったアンファセップの女性達には、心から感謝しています。