ペルー アヤクチョ

武力紛争で奪われた家族の記憶

「祖母たちのいない人生は虚しい」ロドミーラセゴヴィアさん

証言者
ロドミーラ・セゴヴィア・ロハスさん
(Rodomila Segovia Rojas)

生年月日 1966年8月8日
州 アヤクチョ
郡 ラ・マール
区 ルイス・カランサ
子どもの数 2人
アンファセップ参加年 2000年
犠牲者および事件発生日
祖母、マウラ・ロドリゲス・メディナ(1984年5月26日)
叔父、サンティアゴ・ロハス・ロドリゲス (1984年5月26日)

 私は、ルイス・カランサ区のアマホト村で、幼少期から思春期までを祖父アントニオ・ロハスと祖母マウラ・ロドリゲスに育てられて過ごしました。2人は、私にとって親そのもので、いつも温かい愛情を注いでくれました。私の実の両親は、物心つく前から私をおいてリマで働いており、休暇のたびに村を訪れる程度でした。

 1983年、見知らぬ人達がアマホト村にやってきて、私達の家に一夜の宿を求めました。彼らはセンデロ・ルミノソの党員だと言い、なぜ私達が貧しいのかなどについていろいろと教えました。それ以降、党員達が村を通り過ぎてゆくのを何度も見かけるようになりました。

 ある時、2週間で戻って来るからアンダワイラスへ一緒に行こうと、力ずくで連れて行かれそうになったことがありました。それ以来、私は家から離れた雑木の茂みで夜を過ごすようになりました。あの頃の私にとって、夜の訪れは悪夢のようでした。センデロ・ルミノソの攻撃を恐れた祖父は、家の近くにあるウンカの木の上に、簡素な寝床を作ってくれました。それは、トウモロコシの皮と麦わらを敷き詰めた上に羊の毛皮を敷いたもので、私はそこで毛布を被って眠りました。

 祖父母達も日中以外は家に留まることはなく、夜になると灌木の茂みや岩場など、1つの場所に留まらないようにして毎晩眠りました。

 1983年9月から、学業を続けるために私だけウアマンガに移り住むことになりました。祖母は、毎週村から私に会いに来てくれました。祖母が帰る時間になると、私は決まって祖母の懐に入り込み、上着を掴みながら、「おいていかないで、私も村へ連れて帰って」と言っては祖母を困らせました。

 祖父母と叔父のサンティアゴは、牛の売買を生業としていました。1984年4月、1週間前に祖母からの伝言を受け取っていた私は、約束通りチョンタカの土曜市で祖母達と落ち合いました。あの時は、これが祖母や叔父との最後に別れになるなんて思ってもみませんでした。

 私が到着した頃には、祖父達はすでに家畜を売り終わっていました。祖母を見ると、なぜだか不安そうにしていました。叔父のサンティアゴは友人と酒を飲んでいましたが、私を見るなり泣きながらこう話しました。「母さんは最近、頭痛に悩まされているんだ。俺はワチンガに住んでいていつも一緒にいてやれないから。やっぱりお前がいないと寂しそうだよ。俺達の暮らすあたりでも、だんだんとテロリストの問題が増え始めてきた。俺達は、夜はいつも山の中で眠り、日中だけ家に戻るような生活を続けているんだ」。そう言い終わると、叔父は、服や運動靴を買いなさいと言って私にお小遣いをくれました。祖母も同じように、お小遣いをくれました。

 1984年5月26日、私が母と慕う祖母のマウラ、そして叔父のサンティアゴとその妻フランシスカは、セヘランブラスの土曜市で、同業者や買い付けに来た人達の目の前で、男女合わせて18人のテロリストに殺害されました。

 その日、叔父のサンティアゴは、すでにクルスカサの市に連れてきた牛をほとんど売り終えていました。残った1頭を売り切るために馬に乗ってセヘランブラスの市に向かったところ、目出し帽を被った2人の男に呼び止められて馬から降りろと命じられました。叔父が断ると、さらに目出し帽を被った男女がやってきて叔父を取り囲みましたが、叔父は降りることを拒み手綱を振り回して抵抗しました。しかしながら、叔父は男達に馬から引きずり降ろされてしまい、激しい暴行を加えられた挙句、喉を切り裂かれて殺されてしまいました。叔父を殺害した目出し帽の男女達は、輪になったかと思うとセンデロ・ルミノソの党歌を歌いながら、遺体を踏みつけて踊り出したそうです。そして、半裸にされた状態の叔父の体の上に「これが密告者の死に様だ」と書かれた白い紙を置きました。

 その後、叔父の妻フランシスカを崖の方に引きずり込んで彼女の頭を切り落としたそうです。祖母は隠れようとしましたが、テロリストに見つかってしまいました。男達は、高齢の祖母にも容赦なく殴りかかり血まみれなった祖母を引きずって行ったと、その場にいたコマドレ(息子や娘の代母)は語っていました。男達は、叔母のフランシスカが殺された場所よりさらに奥まで祖母を引きずっていったとのことでしたが、それ以来、祖母の所在はつかめないままです。

 その日、何も知らない私はウアマンガで祖母の到着を待っていました。すると、家から少し離れた角に緑色のバスが停まったかと思うと、運転手が降りてきて私の名前を尋ねました。私が名前を告げると、「あなたに荷物を渡したいと言う女性が車に乗っています」と運転手は言いました。車の方へ駆けつけると、そこには叔母のイノセンタ・メディナと、レモンや穀物の売買をしている叔母の従妹が泣きながらバスに乗っていました。私を見るなり叔母は言いました。「私の妹フランシスカはもういないの、もうすべてが終わりよ。私は、サンティアゴが裸にされて道路脇で喉をかき切られたのを見たの。あなたのおばあちゃんは崖に引きずり降ろされていったわ。私は何もできなかった。これはおばあちゃんの荷物よ。」

 それを聞いた私は、絶望して泣き叫びました。「私の愛しいおばあちゃん、やさしい叔父さん、みんなどこへいってしまったの!」家に入った私は、死にたくなって何度も壁に頭を打ち付け、足の爪から血が滲み出るほど壁を強く蹴り続けました。

 私と同じようにウアマンガで勉強していた叔父サンティアゴの3人の子ども達は、その知らせを聞いた途端卒倒してしまいました。近所の人達が水を与えてくれたおかげで、子ども達は意識を取り戻しました。

 その後、家から1ブロック離れたところに住んでいた、祖母の末娘であり私の叔母であるマルセリーナ・ロハスと警察署に行きましたが、「対応できる警官がいないから、あんた達で行ってくれ」と言われました。翌日、セヘランブラスまで遺体を迎えに行くための車を探しに行きましたが、誰も引き受けたがりませんでした。ようやく3日後に叔父の友人が車を出してくれることになり、叔母のマルセリーナと私、そしてリマから飛行機で到着した私の実の母と祖母の弟の4人で、ビニール袋を持って現地に向かいました。

 しかしながら、現場には遺体が残っておらず、叔父のサンティアゴがいたはずの場所に血だまりの跡があるだけでした。血だまりは土で隠されており、その上にはたくさんのハエがたかっていました。村人に遺体のことを尋ねると、みな一様に何も知らないと答えるばかりでした。ところが、7歳くらいの少年に尋ねると、「遺体なら、夜の間に馬に乗せて運ばれていったよ」と教えてくれました。その瞬間、少年の母親が走って来て彼を殴りました。そして私達に、「何を言ってるんでしょうねこの子は。息子は少し頭がおかしいの。自分で何を言っているのかもわからないのよ」と言いました。ほとんどの家には誰もおらず、道端には犬が歩いているだけでした。男達の姿は見当たらず、村は静まり返っていました。

 それからは、何度もセヘランブラスへやってきては山の斜面や谷底、墓地など至るところを探し歩きました。土曜市にも何度か訪れて、あの事件を見ていた人がいないか聞いて回りました。およそ2年のあいだ、私は祖母達の遺体を見つけるために、時にはコカの葉売りを装って人々に尋ねて回りました。

 ある日、私はセヘランブラスの民家に一晩泊めてもらったのですが、夜になると家の男達が外に出て行く準備をはじめました。どこに行くのかと聞くと、村では毎晩集会が開かれているとのことでした。私も参加してよいかと尋ねると、家族や見知らぬ人を連れて行くことは禁じられているのでそのまま休んでいるようにと言われました。

 1990年代には、なんども土曜市に通っては、祖母が連れて行かれたであろう山の斜面や叔父の殺害現場に行って、花瓶に挿した花やロウソクを手向けました。一度、1984年5月25日の事件前日に祖母達が泊まっていた家を訪ねたことがあります。そこには、叔父のところで小作人として働いていたヴィクトルさんが住んでいました。 彼自身も祖母達の遺体が山の向こうに運ばれていったのを見たそうですが、その後どこに埋葬されたかはわからないと言いました。

 2002年頃になってようやく、事件の真相を知ることができました。祖母達が殺された後、セヘランブラスの自警団が会合を開き、私達が村に兵士を連れてくることを恐れて遺体を隠ぺいすることを決めたとのことでした。その後、村人達は遺体を袋に入れて運び出し、集落から2時間ほど離れたところにあるウルコ鉱山の採掘穴に投げ捨てたとのことでした。村人の告白を受け、私達はすぐに真実和解委員会と検察庁に報告しました。

 それから20日後、検察庁は祖母達の遺体遺棄現場を立ち入り禁止にしました。それからしばらくたっても遺骨の発掘作業は進まなかったため、堪りかねた私達家族は現場へと向かいました。現場は、調査のためにいくらか土が掘り起こされていました。しばらくのあいだ、棒などを使って地面を掘り返していると腓骨と肋骨が合わせて3本見つかりました。私達は、それを新聞でくるんでその日のうちに検察庁に持って行きました。マスコミにも伝えて、事件の背景などを踏まえてニュースに取り上げてもらいました。もう私達は、恐怖など感じなくなっていました。このことをきっかけに、私はアンヘリカ・メンドーサ婦人を代表におくアンファセップと関りを持つようになりました。以来、私はアンファセップに所属しています。

 事件から20年後、叔父夫婦の遺骨と祖母の遺骨の一部が発見されました。それらの遺骨は、DNA分析によって私達の家族のものであることが裏付けられました。私達は、祖母達の遺骨を引き取り、キリスト教式の埋葬を行いました。

 1984年以来、セヘランブラスの人達は私の家族が殺されたことを黙殺してきたので、そのことに関して私は村人達を恨み続けています。私は憎しみを捨て去ることができず、そのせいもあってか常に頭痛を抱えています。今は頭痛薬や鎮静剤なしでは生きられません。皆が私にもう忘れろと言いますが、私の中には「忘れる」という言葉は存在しません。死んで初めて忘れることができるでしょう。私の家族は健全でテロリストとは無関係であり続けましたが、センデロ・ルミノソのイデオロギーに従わなかったがために殺されてしまいました。彼らが殺された日、私の幸せな日々は終わり、明けることのない暗闇を彷徨い歩くような日々が始まりました。ですが、生前に祖母が与えてくれた生き方の指針やたくさんの生活の知恵、そして励ましのことばが、その後の私の人生を後押ししてくれました。祖母は今でも私を導いてくれています。私はどこにいても祖母と一緒です。

2022年03月19日更新