ペルー アヤクチョ

武力紛争で奪われた家族の記憶

「父の死が私達の人生に大きく影響しました」テレサウイチョさん

証言者
テレサ・ウイチョ・ウルバノさん
(Teresa Huicho Urbano)

生年月日 1966年10月14日
州 アヤクチョ
郡 ラ・マール
区 タンボ
子どもの数 3人
アンファセップ参加年 2003年
犠牲者と事件発生日 父、ボニファシオ・ウイチョ・オーレ(1984年11月5日)

 暴力の時代が来る前、私達は平和に暮らしていました。私達は、ヘスス、テレサ、ルシア、エミリオ、マリア、エルサの7人兄弟でした。それまでは、シンチスも兵士達も村には来ておらず、警官が駐在しているだけでした。1983年、8人のジャーナリストがウチュラハイの村人に殺害されたのをきっかけに、近隣の村々では日々恐ろしいことが起こるようになりました。タンボ区の村人は立ち上がり、各村が自警団を結成してシンチス達と協力しながら、センデロ・ルミノソのメンバーを探して村々を回り始めました。

 それは確か、1984年の6月か7月頃だったと思います。母が集落の上にあるプーナで家畜を放牧していると、隣村の自警団の連中がやって来ました。そして、お前はテロリストだと言って母を捕まえたのです。男達は、母をロープで縛ってまるで家畜を扱うかのように馬で2キロほど引きずっていきました。道中、男達はこん棒で母親を殴り付けました。その後、半死の状態にある母を投げ捨てて、男達は行ってしまいました。当時、私は16歳で年下の弟や妹達と一緒でした。

 男達は、母は死んだと思ったのでしょう。母は川岸に投げ捨てられていました。午後5時頃、川の水に赤い血の色が混ざっているの見つけた村人達が、川上の方で母を見つけてくれました。発見された時、母の手足は縛られていたそうです。村人達は、母を抱き上げて家まで運んでくれました。

 その後、私達は必死で母を看病し、なんとか回復することができました。本来であれば、タンボの病院に連れて行きたかったのですが、自警団が村から出ることを許してくれませんでした。そこで仕方なく、家で手製の薬を使って母を治療しました。

 1984年の10月頃だったと思います、その日、私達家族はとても早起きして朝食を済ませました。その後、上の子達は学校へ出掛け、母と私は家畜を放牧するために畑に向かいました。私の父、ボニファシオ・オイチョ・オレと6歳のエミリオ、4歳のエルサは、家の脇にあるトウモロコシ畑を耕すために家に残りました。午前10時頃、深緑色の服を着た10人から15人ほどの兵士達が村に乗り込んできました。男達は、父親を呼び止めるとこう言いました。

 「おいテルーコ、こっちに来い!お前の子ども達はどこだ!お前の妻はどこだ!」。父は、妻は病気だと答えましたが、兵士達は執拗に子ども達の所在を聞き出そうとし、「嘘をつくな!お前の子ども達はテロリストだ!」と怒鳴りました。そして父親は、エミリオとエルサの目の前で気絶するまで殴られました。兵士達は、泣き叫ぶ弟達を家の中に閉じ込めると、再び父を殴り始めました。そして、血まみれになった父を残して去って行きました。

 それから約2時間後、別の兵士達が村にやってきました。男達は、傷ついた父を見て、「おいテルーコ、まだ生きてるのか?お前の子ども達を連れてこい!奴らはテロリストだ!」と言って、再び拷問を加え始めました。

 そして、両手をロープで縛って岩だらけの道を引きずりながら、乾燥させたトウモロコシの皮を積み上げてある枯れ木のところまで連れて行きました。男達は、枯れ木に父親を縛り付けるとそこに火を放ちました。生きたまま焼かれた父親は、助けを求めて叫び続けました。兵士達は、「誰もあの犬野郎を助けるな!もし助けでもしたらお前ら全員を殺す!」と村人を脅しました。村人達は、何もできずに家の陰に隠れながらそのようすを見つめているだけでした。村に戻った私達も、離れたところで怯えながら起こっていることを見つめるしかできませんでした。

 すでに午後の6時を回っていましたが、父親に近づくことは許されませんでした。母は、「7人の子ども残して私はどうすればいいのよ!」と泣き叫びました。

 その後も、人々が遺体に近づかないよう兵士達が見張っていました。それでも、母は父の遺体に近づき犬に食べられないように毛布をかけてあげました。翌日の日が暮れる頃、兵士達がいなくなると、母と叔父が父の遺体を木からほどきました。そして、夜のあいだにこっそりと父の遺体を共同墓地に埋葬しました。

 父親を殺された私達は、まったくの無力でどうしていいかわかりませんでした。私達は、すべてのものを失いました。私達は、軍隊からの更なる迫害を恐れて村を離れ、山裾の洞窟に身を潜めて数年間を過ごしました。洞窟では、家を焼かれ人や、恐怖から村を離れた人達と共に暮らしました。その後、軍はタンボの駐屯地を拠点として、センデロ・ルミノソを掃討するために度々村を攻撃しました。実質的には、1990年まで村に戻れない生活が続きました。1988年、私は1人でウアマンガに移り住み、母や兄弟はそのまま村に残りました。母は現在88歳になりました。

 両親に起こったことが私達の人生に大きな影響を及ぼし、勉学まで放棄しなければなりませんでした。当時は、生きていくことすらままならない状態で、近くには通える学校すらありませんでした。校舎も含めて村のすべてが破壊されてしまったのです。

 私は小学3年生までしか学校に通えていません。兄弟も、生きてゆくために幼いころから働き始めました。しばらくして、母はタンボ区にある紛争被害者の会に参加するようになりました。

 私は、2003年からウアマンガでアンファセップの活動に参加しはじめました。私達は闘い続け、父の殺害の代償として賠償金を受け取りましたが、それはほんの僅かなものでした。アンファセップは日に日に活動の幅を広げており、今やメンバーのみんなは私にとって家族のような存在です。私達は、それぞれの身の上に起こったことを共有しあうことで互いを慰めあい、励ましあって生きています。メンバーの女性達は、皆とてもやさしい人ばかりです。

 父の殺害は、私の心に大きな影響を及ぼしました。目の前で父親を殺された2人の弟達は、時折激しい頭痛に襲われるといいます。父がいなくなったことで、その後の人生はとても辛いものとなりました。私は、少女時代にウアマンガに移り住んだのですが、街では農民の娘というだけでひどい扱いを受けました。そんな時、母や兄弟も同じような目に合っているんだと思うととても悲しくなりました。

2022年03月23日更新