「アンファセップで息子達が待っているような気がします」マリア・ウアマンさん
証言者
マリア・ウアマン・ラモスさん
(María Huamán Ramos)
生年月日 1933年5月19日
州 アヤクチョ
郡 ラ・マール
区 チュンギ
子どもの数 7人
アンファセップ参加年 1983年
犠牲者と事件発生日
息子、フェルナンド・リサナ・ワマン (1983年6月15日)
息子、エリ・リサナ・ワマン(1984年)
息子、フアン・レナン・リサナ・ワマン (1984年)
息子、オディロン・リサナ・ワマン(1984年)
1968年頃、私は子ども達を養育するためにチュンギからウアマンガへと移り住みました。「あなたたちのおかげでウアマンガの街に住めるのよ」と、まだ幼かった子ども達にはよく言っていました。ウアマンガでの暮らしはとても幸せで、子ども達もよく勉強して毎年留年することなく進級しましたが、生活はとても貧しかったです。勉強熱心で聡明な子ども達を先生方はとても可愛がってくださり、時折衣服を与えてくださったり、ある時などは息子の1人に制服一式をプレゼントしてくださったりしました。
私は手作りのチョコレートを売り歩き、それで得たお金で生計を立て子ども達を養っていました。当時、チョコレートを売り歩いていたのは私達だけでした。その後、私の稼ぎでは子ども達を養えなくなったので、年長の子ども達もチョコレートを売り歩いてくれるようになりました。子ども達は、毎朝学校に行く前に広場や市場などでチョコレートを売ってくれました。
上の2人は、中等学校を卒業してすぐに大学へ通い始めました。上の子は、成績優秀のため奨学金をもらっていました。ですが、弟のフェルナンドは、大学に入学して半年後に休学してしまい、その後友人と共にセルバへ行ってしまいました。フェルナンドの友人は、セルバでビジネスを始めようと息子を誘いました。フェルナンドは、ピチャリで暮らす友人の叔父に出会った際こうアドバイスされました。「どうやったら稼げるか教えてあげるよ。もっとジャングルの奥の方へいけば空いている土地があるから、そこにカカオを植えるんだ。 カカオはたった3年で実をつける。 君の若さなら時間は十分さ。」
家に帰ってきたフェルナンドは、意気揚々とチョコレート工場建設のプランを私に披露ました。彼が作成した区画図には、私の土地も含めてありました。そうしてフェルナンドは、専攻していた化学工学を放棄し、正式に大学を中退してしまいました。それを聞いた下の子ども達も、フェルナンドの畑を手伝うためにセルバに行くことを熱望しました。
そして、彼らは計画を実行に移し始めました。最初のうちは、十分な食べ物がないからという理由で、私と夫は連れて行ってもらえませんでした。計画は、多少なりともうまくいっているようでした。その後、夫も呼ばれてセルバに働きに行きましたが、その仕事をすっかり気に入ってしまった夫は、子ども達と残ってカカオ栽培を続けることになりました。夫は、「このカカオ使って自家製のチョコレートを作ろう」と私に言いました。
1983年6月15日、31歳の息子フェルナンドは、私に食料を届けるためピチャリからウアマンガにバスで戻って来るところでした。その頃には、すでに政治的暴力がアヤクチョ全域で始まっていました。道中、ヤナモンテというところで、息子達はシンチスに出くわしてしまいました。シンチスは、息子を含めた若い人達をバスから降ろすと、サンフランシスコ村へと連行しました。
それを伝え聞いた私は、すぐさまセルバへと向かいました。集落という集落を探し回りましたが、誰も事件のことは知らなかったし、息子を見た人さえいませんでした。あの日バスに乗っていた人達の話によると、バナナやコーヒーを積んだ小型トラックがやってきてたかと思うと、そこから降りてきたシンチス達が息子達を捕まえたとのことでした。セルバとウアマンガを行き来するトラックの運転手達にも聞いてみたが、情報は得られませんでした。息子は、まるで大地に飲み込まれたかのように消えてしまいました。下の息子達と夫も、フェルナンドを探し始めました。彼らはジャングル中を探しましたが、フェルナンドを見つけ出すことはできませんでした。
翌1984年9月、海軍兵士達が突如としてセルバのカナイレ村に現れ、大人から子どもに至るまで畑や家にいた村人達を手あたり次第に殺害しました。兵士達は、置き去りにされた子ども達まで捕まえて、「悪は根絶やしにしなければならない」と言って、絞め殺したそうです。女性達は、レイプされた後に殺されました。息子のエリとフアン・レナンは、その時に殺されました。フアンは、ユカ芋を買い付けにカナイレ村に向かう道中で殺されたとのことでした。
ウアマンガにいた私は、ラジオやテレビでその事件を知りました。不安になった私は、セルバと街を行き来している隣人に詳しい話を聞きに行きました。すると、「海軍がカナイレ村を襲って村人を皆殺しにした」と隣人はいいました。私は信じられず、悪い夢でも見ているのではないかと思いました。私はただ泣いてうろたえるだけでした。あの時代は、ただ外を歩いているだけでセンデロや兵士や自警団に殺されてしまうような状況でした。だから私は、怖くてセルバへは行けませんでした。その虐殺事件の後、夫も行方不明になってしまいました。
私は、どうしていいかわからず、うろたえながらウアマンガの街を歩いていました。そのうちに、ベレン地区に住んでいるクレメンシアさんやアンドレス・ロサノ氏など、行方不明となった家族を探し歩いている何名かの人達と知り合いになりました。最初は数人でしたが、ある日、同じように息子を探していたアンヘリカ婦人と検察庁で出会いました。彼女と知り合えたことで、同じ被害を抱える女性達と共により前向きな行動をとれるようになりました。
ある時、アンヘリカ婦人は言いました。「日曜日には警官が集まってパーティーを開くそうなの。少なくともジャーナリストが取材してくれると思うから、彼らの前で抗議活動をしましょう。」
またある時は、大勢の武装した兵士達を前にして、「殺すなら、私たちを殺せ!」と勇気を振り絞って抗議しました。そうやって活動を重ねるごとに、メンバーの数はどんどんと増えていきました。はじめのうちは、当時のウアマンガ市長レオノール・サモラ女史の計らいで市庁舎の一室に集まっていましたが、最終的にはシンコ・エスキナス通りにある「マエストロの家」の一室を借りて、アンファセップの事務所を設置しました。
しかしながら、1990年にフジモリが大統領に就任すると、警察がアンヘリカ婦人への迫害を始めした。そのせいで、私達は以後2年間活動を中止せざるをえませんでした。その後、状況が落ち着いてリマに逃れていたアンヘリカ婦人がウアマンガに帰ってくると、恐怖で離れていたメンバー達も徐々に戻ってくるようになりました。
虐殺から約3年が経過したころ、息子達に何が起こったのかを知るため、そして家族が開拓したカカオ畑を見るためにセルバへと向かいました。カナイレ村に着いた私は、人々に何が起こったのかを聞いて回りましたが、誰も何も知りませんでした。それもそのはずで、住んでいたのは皆よその土地からやってきた新しい人達でした。以前ここに住んでいた人達は、3年前の事件で皆殺しにされていたからです。
逃げ延びた人達はどこへ行ってしまったのでしょう。放棄された土地では、誰も収穫することのないカカオが地面に落ちていました。かろうじて事件のことを知っていた人が、夫は息子達を埋葬したあと姿を消してしまったと教えてくれました。もしかすると、夫は悲しみのあまり川に身を投げたのではないかと思う時もあります。その後、夫がどうなったかを知る人は誰もいないのです。村人の1人は、川に流されたのかもしれないと言いました。
息子達の畑では、カカオの実が収穫できる状態になっていました。ですが、長らく放置されていたために、カカオの木に交じって雑木が生い茂っており、整備するには男手なしでは難しい状態でした。私は、泣く泣くその土地を放棄することにしました。今頃、その土地は他の人が使っていることでしょう。畑の端に、殺された4人の息子のうちエリとフアンのお墓を見つけました。墓標に名前が書かれてあったのでそれだとわかりました。私は、息子達を掘り起こして運ぶことなくウアマンガに戻りました。
息子達の死、そして夫の失踪がその後の私の人生に大きな影響を及ぼしました。悲しくて泣いてばかりいる私を、チョコレートを買いに来てくれるお客さん達がいつも励ましてくれました。私のそばにいてくれるのは娘ぐらいだというと、「何を言ってるの、だったら娘さんをより強く愛してあげなさい。もう泣かないで。殺されたのはあなたの子ども達だけじゃない。たくさんの人達が殺されてしまったのよ」といって慰めてくれました。私は、神に苦難を乗り切る力をくださいと祈りましたが、いつ気が狂ってもおかしくない状況でした。時には、にわかに外へ飛び出したくなることもありましたが、元気になるようにと、お客さんの1人がとても栄養のある牛脚のゼラチンを与えてくれたりもしました。
しばらくすると、息子の1人が働き始めるようになり生活を助けてくれるようになりました。チョコレートを売ったお金で、卒業まで娘の学業を支えてあげることができました。娘もいつも私のことを手伝ってくれました。
息子は、アンファセップのメンバーあるフアニータさんらと手工芸品販売のグループを作りました。娘は学業を継続しました。私は、変わらずチョコレートを作って売りながら、時折私の小さな土地にたくさんできるトゥナ(サボテンの実)やコチニールカイガラムシを採って、それを売ったりもしました。
今、私はとても目が不自由で何もできません。もう1度見えるようになりたいです。アンファセップの作業療法に参加して織物を作りたいと思っていますが、目が見えなくてできません。時折気分が落ち込んだり、頭痛がしたり、心臓が痛くなったりします。昨年は、心理学者が来てくれてメンバーと共に心理療法に参加しました。あれ以来、頭痛が少し減ったような気がします。あの時のことを話し出すと、いつも泣いてしまって頭が痛くなります。
現在、私は何もしていません。ただ孫の面倒を見ているだけです。チョコレートはもう作っていませんし、もう作る気力もなくなりました。心理学者からチョコレートを作り続けてごらんと言われたので、頑張って作ってアンファセップの販売店に持って行ったこともあります。ですが、作るのが大変な小さなチョコレートしか売れませんでした。今は、作ると体調を崩すからと子ども達が作らせてくれません。
私は、アンファセップに参加しながら、まだ見つかっていない2人の子ども達を探し続けています。アンファセップの活動に参加していない時は、なぜか気持ちが落ち着かず、今頃どんな活動をしているんだろうといつも知りたくなってしまいます。なぜだか知れませんが、アンファセップで子ども達が待っていてくれるように思えてしまうのです。
多くの年老いたメンバーは亡くなってしまいました。ある人達は、活動に参加することで政府に殺されるのではないかと恐れて、アンファセップに来なくなりました。アラン・ガルシアが2期目の大統領に立候補して選挙キャンペーンに来たときも、アンファセップから抗議に参加したのは僅か数人だけで、他のメンバー達は恐怖のあまり遠巻きに私達を見守っているだけでした。
私は、賠償金は期待していませんが、1人でもいいので息子が見つかってくれることを願っています。いなくなった4人のうち2人の息子達は既に埋葬されているにも関わらず、私はそれを受け入れることもできていません。私の手で息子達を埋葬したわけではなく、彼らの名前が書かれたお墓を見ただけだからです。時折、息子達が戻って来るのではと感じることがあり、今日帰ってくるかもしれない、今年返って来るかもしれないと思うことがありますが、今になるまで何の知らせもありません。
息子のフェルナンドはどうなってしまったのでしょうか。彼はどこにいるのか、死んでいたとしたら遺体はどこにあるのか、どこに埋葬されているのか、もしかしたら私の手で見つけられるかもしれない。もし息子が焼かれてしまってでもいたら、たとえ彼の遺体を見つけたとしても、生きた彼と再会するのとは全く違った気持ちになるでしょう。長い間会っていませんから、息子が当時どんな服装をしていたのかもわかりません。アラン・ガルシア現政権にはあまり期待をしていません。なぜなら、彼は私達に賠償金すら支払わないだろうと思っているからです。この政府が去った後は、フジモリが再び戻って来るかも知れません。そうしたら、私達被害者への補償など一切なされないでしょう。