ペルー アヤクチョ

武力紛争で奪われた家族の記憶

「残っていたのは骨と衣服だけでした」セベリーノテノリオさん

証言者
セベリーノ・テノリオ・アラルコンさん
(Severino Tenorio Alarcón)

生年月日 1928年1月21日
州 アヤクチョ
郡 カンガージョ
区 ロス・モロチューコス
集落 クシ・バンバ
子どもの数 10人
アンファセップ参加年 1984年
犠牲者および事件発生日 息子、デメトリオ・テノリオ・バルバラン (1984年9月22日)

 私はパリアワンカという村で、ジャガイモを栽培したり牛や羊を飼ったりして妻と共に慎ましやかに暮らしていました。パンパ・カンガージョにも小さな家を所有しており、パリアワンカとの間を行き来していました。パンパ・カンガージョでは、役場から道路や橋梁工事の検査官に任命されました。さらに、村人から慕われていたこともあってか、村の治安判事にも任命されました。村人達は、「この人は、いつも村が良くなるように考えてくれている」と言ってくれました。これらの仕事は無償で請け負っていましたが、しばらくして役職に就くことに疲れてしまい、パリアワンカに留まることにしました。

 ある日、息子のデメトリオがパリアワンカの畑に水を引いていると、隣人がやってきて言いました。「この水は俺のものなのに、どうしてお前だけが使っているんだ」。実際、その水は私達の土地にある沢から湧き出ていたものだったのですが、二人は水を巡って口論になりました。怒りの収まらない隣人は、村役で共有していた秘密のリストにテロリストとして息子の名前を書き込んで軍に提出しました。そのせいで、息子は軍にマークされるようになりました。

 1984年8月4日、息子の従兄弟がコンドルコチャの集落で行われた牛のエランサ(家畜の繁栄を願った祭り)に息子を招待してくれました。息子達がエランサに興じていると、カンガージョの方から複数の拘束者を連れた8名の兵士達が歩いてきました。近寄ってきた兵士達は、息子の名前を確認するとすぐに捕まえました。兵士達の手帳には、すでに息子の名前が書きこまれていたのです。息子は、センデロ・ルミノソとは一切の関わりがありませんでした。

 その時、私はウアマンガの街へ来ていましたが、息子が捕まえられたと聞いてすぐにカンガージョにある兵舎へと向かいました。兵舎に着いた私は、入り口の兵士に息子の所在を尋ねましたが何も教えてくれませんでした。周りの住人は、誰も兵舎には近づきたがりませんでした。きっと私達のことを恨んでいる誰かが、息子を連れて行くよう頼んだのでしょう。いつまで待っても、息子が兵舎から出てくることはありませんでした。

 ですが、息子を知っている人達が、「あなたの息子はセンデロのメンバーではないのだから、すぐに兵舎から出てくるだろう」と言ってくれたので、私はあまり心配せずに落ち着いていました。息子は独身で、当時まだ25歳の若さでした。

 後で分かったことですが、あの日兵士達はカンガージョとコンドルコチャを回って複数の村人を捕まえたそうです。息子を逮捕した後、兵士達は徒歩で数日かけてトクトへと向かいました。その後、チュパスの村で一夜を過ごしてさらに山道を進むと、同日の午後4時頃にカサオルコの村で息子を含めた4名を殺害したそうです。息子達は、殺される前に1週間近くも歩かされたのです。

 息子達が殺されたと聞いて、私は家族と共に急いでカサオルコへと向かいました。娘のロサリアと共に息子を探していると、ヤギの放牧をしていた女性が谷の傾斜に7つの死体が捨てられているのを見たと教えてくれました。現場に向かって遺体を確認しましたが、そのほとんどは死後約1ヶ月近く放置されていたため、犬やキツネに食べられてしまっていました。残されていたのは骨と衣服だけでした。ですが、私達は遺体の中からすぐに息子を見つけ出すことができました。骨だけになった息子の遺体は、奇跡的にも衣服を纏った状態で横たわっていたのです。おそらく、道中息子に会えますようにと願っていたのを神様が聞きいれてくださったのだと思います。

 死んでしまってはいましたが、それは確かに私の息子でした。1984年9月22日のことでした。私は、ウアマンガに戻ってサンファン・バウティスタ地区の役場に遺体の移送をお願いしました。役場の職員は、トラックを手配してくれ、息子の遺体をウアマンガの病院へと運んでくれました。病院の遺体安置所で検死してもらった結果、死因は頭部への銃撃によるものとのことでした。翌日、遺体安置所に戻ってみると、どういうわけか、息子の膝から下が切りとられて無くなっていました。通夜を行った後、息子の遺体をウアマンガの墓地に埋葬しました。

 息子を埋葬できたことで、私は少し落ち着くことができました。しかしながら、 兵士達はいったいどれだけの罪のない人々を殺害したのでしょうか?いったい、なんのための、誰のための政府なのでしょうか。私の家族は、息子だけが頼りでした。息子は家畜の仲買人として働いており、その多くをリマに出荷していました。その稼ぎで、ウアマンガのアメリカス地区に家を建てるのを助けてくれました。

 息子の死からしばらくたったある日、苗字が他の誰かと同じというだけの理由で、私は軍に殺されそうになりました。兵士達は、ロス・カビートス51兵舎に私を連れて行き、お前は何某だろうと言って詰問しました。

 その時、私も殺されるんだと心の中で思いました。私は、身分証明書を見せて彼らが探している人物ではないことを必死で説明しました。結果、誤りに気付いた兵士達は、何の危害を加えることもなく私を解放しました。これも、偉大なる神のおかげだと思っています。

 現在、私はパリアワンカ村に戻って暮らしていますが、もう畑仕事をする体力もなくなってきたのでウアマンガの街で暮らそうと思っています。村の朝晩はとても寒く、妻の目も見えなくなってきているので、街で暮らした方がいいと思っています。息子が死んでからは、誰も助けてくれる人がおらずとても貧しい暮らしをしています。今は、死ぬことばかりを考えています。自分がやったことすら覚えていない時があり、物をどこに置いたかもすぐに忘れてしまいます。

 今は杖なしで歩けていますが、明日はどうなるかわかりません。家では、年老いた妻が料理をするときに、薪や水を運ぶのを手伝うくらいです。現在は、小作人と共に畑を耕していますが、神様のお恵みでなんとか食べていけるだけの収穫はあります。今年は特に寒く、雹が降ってしまって作物がだいぶやられましたが、すべては神の御意志であり、すべてには起こるべくして起こる時があるのだと思っています。私達は、身に降りかかることを通して自らの悪行を悔い改めなければなりません。

 大統領には良心に従って物事を進めてほしいと思っています。どれだけの無実の人達の命が奪われたのかを、忘れないでもらいたいです。僅かなりとも私達を助けて下さったのは他国の人々でした。この国の大統領は、貧乏人のことを考えてはいません。フントスという名の年金プログラムがありますが、私達紛争被害者も受給対象者に含めるべきです。何年もの間、被害者個人に対する経済的補償を求めてきましたが、政府は約束するだけで未だに果たしてくれません。これはお願いではなく、私達被害者が受けるべき当然の権利だと思います。私達は、正義を求めています。

2022年03月19日更新