ペルー アヤクチョ

武力紛争で奪われた家族の記憶

「平和と静寂が訪れることを願います」ヴィクトリアパリオナさん

証言者
ヴィクトリア・パリオナ・ヴィウダ・デ・サクサラさん
(Victoria Pariona vda. de Sacsara)

生年月日 1950年2月25日
州 アヤクチョ
郡 ウアマンガ
区 ソコス
子どもの数 8人
アンファセップ参加年 1984年
犠牲者および事件発生日
娘、アイデ・サクサラ・パリオナ(1984年11月2日)
息子、ラウル・サクサラ・パリオナ (1984年11月2日)

 夫が亡くなったとき、まだ子ども達が小さかったこともあり、どうやって育てていけばよいのか不安になってよく泣きました。それでも、市場で食料品などを売って生計を立てながら、子ども達の勉学のためにできる限りのことをしてきました。毎年11月1日の死者の日には、ワワ・タンタという人形のかたちをしたパンをたくさん作っては、リマまで運んで売っていました。1984年の死者の日も、毎年のようにパン売るため子ども達を家に残してリマへと旅立ちました。荷物の見張り番をしてもらうために、末っ子だけ一緒に連れて行きました。私は、「寝るときにはしっかりとドアを閉めてね。明日はお墓のお父さんにお花を供えに行ってね。お肉もあるから食べてね」などといって家を出ました。

 パンを売り終えた私達は、日曜日の午後にウアマンガへ戻ってきました。その当時は、リマからウアマンガまでバスで2日もかかりました。私達は土曜の朝にリマを出発し、日曜日の午後5時頃にウアマンガに到着しました。私は、終着のバスターミナルよりも手前にある家の近くのバス停で末っ子を降ろしてこう言いました。「あなたはここで降りて。この録音機を持って帰って、お兄ちゃん達にバスターミナルまで荷物を運ぶのを手伝いに来るよう言っておくれ。」

 しばらくすると、末っ子が兄弟をつれてターミナルにやってきましたが、その顔は青ざめていました。「兵士達が家にやってきて、アイデとラウルを縛って連れて行ってしまったんだ!」それを聞いた私は、急いで警察署や犯罪捜査本部に向かって子ども達を探しました。ですが、いずれの場所でもここへは連れて来ていないと言われました。その後、警官に言われるままに兵舎へと向かいました。兵舎に着いたのは午後の6時前でした。そこにいた将校に尋ねると、「誰がここに行けと言ったんだ、ここには1人の囚人もいない」と言われました。

 帰るに帰れずにその場で泣いていると、若い兵士が近寄って来て私に尋ねました。「セニョーラ、かわいそうにどうして泣いているんですか?」私が、「お兄さん、私の小さな子ども達2人を見ませんでしたか」と尋ねると、兵士は、「もしかして、あなたの子ども達は未成年者ですか」と聞き返しました。私がそうだと答えると、「しばらく前に、その子達がカサ・ロサーダに連れて行かれるのを見ました。早くいって確認してきなさい」と兵士は言いました。

 私はカサ・ロサーダに行き、そこにいた男性に「セニョール、私の子ども達がここに連れてこられたそうですが、どうしてですか?私の子ども達は何もしていません」と言いました。すると、その男は私に銃を突き付けて、「クソ野郎!お前は殺されたいのか!誰がここへお前を送り込んだんだ?この淫売婦の クソったれめが!」 と罵りました。私は、どうしてよいかわからずただ泣きました。そこにいたのは知らない人ばかりで、みなシンチスの服を着ていました。

 家に帰ると、部屋中がぐちゃぐちゃになっていて大事なものは何も残っていませんでした。僅かに小さな毛布が2枚残っていただけで、残りの物は全て持ち去られていました。米も砂糖もすべて持ち去られ、土間には土に交じってトウモロコシが散らばっていました。

 翌日、私は弁護士を探しました。フロレンティーノ・トレス氏が対応してくれることになりました。私は、「先生、どうか子ども達を解放してください」とお願いしました。早速、フロレンティーノ氏が兵舎に面会を申し出てくださり受理されましたが、兵舎では子ども達はここに来ていないと言われただけでした。

 その後、検察庁に告発状を提出しましたが、ここでも子ども達の強制失踪に関する軍の関与は否定されてしまいました。しかたなく、私は1人で子ども達を探し始めました。どこにたくさんの遺体が捨てられているのかを、教えてくれる人たちがありました。私は、末っ子のヴァレリオを連れてインフィエルニージョへと向かいました。子ども達を探していると、兵士達がやってきて「動くなバカヤロウ!」、「あの女を殺してしまえ!」と口々に叫びました。私達は、薪を集めているふりをしてその場をやり過ごしました。ですが、そこでは子ども達を見つけることはできませんでした。

 それから1か月間、狂ったように歩き回りました。ある場所では、リュウゼツランの根元に死体が転がっているのを見つけましたが、私の子ども達ではありませんでした。子ども達が強制失踪してからほぼ1か月後の11月29日、甥っ子のアンヘルが私のところに来て、「おばさん、ワンタからさらに奥に入ったチワンワイというところに死体がたくさん捨てられているらしいから探しに行こうよ」と言いました。行ってみましたが、そこに遺体はありませんでした。正午頃、ルリコチャを通って帰る途中リュウゼツランの根元に遺体が山積みになっているのを見つけました。犬や豚が、それらの遺体を貪っていました。あたりでヤギの群れを連れ歩いていたおばあさんが、「この先にあるベハの谷底に3体の遺体を見たよ。1人は水色の服を着ていた」と教えてくれました。

 谷底に下りてみましたが、遺体はすで犬に食べられてしまっており、骨しか残っていませんでした。午後2時頃、私達はウアマンガに到着し中央広場のあたりを通りかかりました。広場にはたくさんの人が集まっており、アンヘリカ婦人もその中にいました。集まりに参加していた私の従姉妹が、私を見つけると駆け寄ってきました。従姉妹は言いました。「どこにいってたの?早く行きましょう!あなたの子ども達の遺体が見つかったの、遺体は病院に運ばれたところよ。」私が、子ども達はどういう状態だったかと尋ねると、従姉妹はひどく傷つけられていると答えました。

 私は、子ども達に会いたい一心で従姉妹に付き添ってもらい病院に向かいました。病院に向かう途中、ひどい死臭を漂わせたダンプカーが横切っていきました。それをみた従姉妹が、「ほら、もう置いてきたんだよ」と言いました。私が、「何のこと?」と聞くと、従姉妹は、「いいからまずは病院に行こう」と言いました。

 遺体安置所に入ると、ちょうど娘の遺体が運ばれてきたところでした。娘の足から運動靴が脱げ落ちました。私は娘を見て泣き叫びました。息子の遺体はガソリンをかけて焼かれており、骨だけになっていました。足の骨の先にいつも履いていた制服の切れ端が残っていたので、それが息子だとわかりました。娘は、兵士達にレイプされた後に殺されたようでした。舌と乳房が切り取られ、目がえぐり出されていました。さらに、膣が2つに裂けていました。娘はついさっき死んだような感じで、笑顔を浮かべている様にさえ見えました。

 後になって、私達は事件の真相を知ることができました。あの日、家の近くにある貯水池のあたりで、兵士達がひとりの青年を追いかけていたそうです。追われていたその青年は、私達の家に逃げこみました。その頃、子ども達は中庭でボール遊びをしていました。そして、70人あまりの兵士達が私達の家を取り囲んだそうです。兵士達は、「なぜあいつはここに逃げてきたんだ!お前たちもテロリストなんだろう!」と言って子ども達を捕まえたそうです。

 野蛮な兵士達は、娘のヘイディと息子のラウルを拘束して、街の郊外にあるアンテナ塔のある丘へと連れて行き、車の後ろに縛り付けて引きずり回したそうです。子ども達は泣きながら、「離してください!セニョール、なぜ私達を連れて行くのですか?セニョール、私達は何もしていません、私達はあの子のことを知りません!」と叫んだそうです。しかし、兵士達はそのまま子ども達を連れ去ってしまいました。後で聞いたところによると、私の家に逃げ込んできた若者はテロリストだったそうで、兵士達は私の子ども達を仲間と思い込んで連れて行ったのだそうです。当時、娘はまだ16歳、息子は14歳で、テロリスト達とは全くの無縁でした。兵士達はその場でその若者を殺害し、荷台に縛り付けた後、血を滴らせた状態で運び去ったとのことです。

 色んなことが起こった後、私は残った子ども達を連れて、「マエストロの家」にある子ども食堂に通って食事をいただくようになりました。しばらくすると、私も料理を手伝うようになりました。アンファセップでは、アンヘリカ婦人やアンドレスらと共に、正義を求めて歩き始めました。その後、アンファセップは土地を手に入れて事務所を構えることができ、そこで子ども食堂を継続することになりました。アンファセップに参加してからは、ウアマンガやリマなどで開かれるデモ行進にも参加しました。また、検察庁や警察署、裁判官、犯罪捜査官に対して幾度となく抗議を行いました。しかしながら、彼らからは何の返答もありませんでした。

 亡くなった子ども達の正義を求めて家を留守にすることが多くなったせいで、泥棒に入られて大泣きしたこともありました。その後、子ども達を連れてリマに移り住みましたが、子ども達が頻繁に病気に罹るので、耐えられなくなってウアマンガに戻ってきました。その後ほどなくして、子ども達は再びリマへと移り住みました。当時はまだ殺戮が続いていたため、子ども達は殺されることを恐れていたからです。学業を終えることもないまま、子ども達はリマに残りました。

 母の日が来るたびに、お祝いをしてくれた子ども達のことを思い出します。子ども達を思い出しては胸が締め付けられて、ただただ泣いています。事件が起こってから長い時間が経ちましたが、今になるまで子ども達を殺した犯人すら明らかにされません。いったい、いつになったら真実が明らかになのでしょう!せめて、子ども達を殺した奴らが刑務所に入ってくれでもすれば、少しは私の気持ちも晴れたことでしょう。

 今、私は病気がちで常に薬を服用しています。あの事件が、私の人生に大きな影響を及ぼしました。私はいつも思い悩んでばかりいます。もし私の子ども達が生きていたら、おいしいものを食べなさいと言って時折小遣いをくれたことでしょう。現在、私は小商いで稼いだお金で生活を維持しています。私達のもとに、平和と静寂が訪れることを願います。罪を犯した者達は投獄されなければなりません。アラン・ガルシア大統領は人殺し達を庇うべきではない。私達が普通の生活を取り戻せるように、国会議員達はもっと頑張ってくれないといけません。真実を知らされることなく、なんの賠償を受け取ることもなく亡くなってゆくアンファセップの女性達に、なんらかの支援をお願いします。私は、被害者個々人に対する賠償を要求します。

2022年03月19日更新