ペルー アヤクチョ

武力紛争で奪われた家族の記憶

「生きているか、死んでいるかさえ分からない。何も分からないのです!」バシリアゴメスさん

証言者
バシリア・ゴメス・アラルコンさん
(Basilia Gómez Alarcón)

生年月日 1959年6月24日
州 アヤクチョ
郡 カンガロ
区 パンパ・カンガージョ
集落 パリワンカ
子どもの数 8人
アンファセップ参加年 1983年
犠牲者および事件発生日
息子、エロイ・カルデロン・ゴメス(1983年6月24日)
息子、セレスティーノ・カルデロン・ゴメス (1984年12月22日)
息子、セバスチャン・カルデロン・ゴメス (1983年6月22日)
甥、レイナルド・ゴメス・デ・ラ・クルス (1983年6月24日)

 暴力の時代がやってくる前、私は静かに暮らしていました。夫はずっと以前に、8人の子どもたちを残して亡くなっていました。ですから、私は女手一つで子どもたち育てなければなりませんでした。その子どもたちも、気管支炎や肺炎を患うなどして次々と亡くなり、結局4人しか生き残れませんでした。夫が亡くなってからというもの、私はできる限りのことをして子どもたちの面倒を見てきました。糸を紡ぐ仕事もあれば、穀物を挽く仕事もありました。それでも、子どもたちが大きくなったら、私の面倒を見てくれるだろうと思っていました。

 息子エロイと甥っ子ののレイナルドは、祖父と一緒にパンパ・カンガージョに住んでいました。1983年6月24日の午後3時頃、息子と甥っ子は、学校の授業が終わるとそのまま川へ行きました。村人が言うには、息子たちは川で水浴びをしていたそうです。すると、見知らぬ男が息子たちを捕まえ、こいつらはテロリストだと言ってシンチスに引き渡したそうです。ですが、それはまったくの嘘で。息子たちはただの子どもで、その日も学校のノートを手に歩いていました。

 息子たちが連れて行かれた翌日の土曜日に、コンパドレがプナまで上がってきて私に聞きました。「昨日、あんたの息子と甥っ子がさらわれたって聞いたけど、ここに来なかったかい?」。そうコ知らされて、はじめて息子が事件に巻き込まれたこと知った私は、すぐにカンガージョへ向かおうと思いました。なぜなら、逮捕された人たちは、パンパ・カンガージョ経由でカンガージョへと連行されると聞いていたからです。私は、私の兄、つまりは甥っ子のレイナルドの父親と共にパンパ・カンガージョへと向かい、日曜の早朝には街に到着しました。街の警察署で息子たちの所在を尋ねると、カンガージョに連れて行かれたと言われました。兵士たちは、ケチュア語を話さなかったので、スペイン語を話せない私たちが彼らと会話をすること自体とても困難なことでした。兵士たちは、「カンガージョヘ行ってこい!」と怒鳴りつけ、私たちを殴りつけました。

 カンガージョの警察署では、土曜日までに羊を持って戻ってきたら息子たちの所在を教えてやると言われました。しかたなく、言われた通り土曜日に2頭の羊を持って戻ってきました。兵士たちは、羊を受け取ったあと「息子たちはトトスに連れて行かれてた、トトスとウアマンガに行ってみな」とだけ教えてくれました。ですが、トトスでも、ウアマンガでも息子たちを見つけることはできませんでした。あの日から今日まで、息子のエロイも甥のレイナルドも見つかっていません。

 パンパ・カンガージョの郊外に位置するスカ・ワイクンを流れる川岸で、息子たちはシンチスに連れて行かれました。その後、その場所には軍の駐屯地が設置されました。私の息子と甥を引き渡したのはクスカイマルカからやってきた諜報機関の人間でだったようです。

 私は、誰がどういう理由で息子をシンチスに引き渡したのか調べてほしいと村役に訴えました。村役が、その人物を探したところ、すでにリマに逃げてしまったとのことでした。その男は、パンパ・カンガージョの住人だということがわかりましたが、のちに死亡してしまったとのことです。事件を目撃した人たちも、すでに死んでしまいました(死亡理由は?)。検察庁からは、被疑者と承認を連れてくるようにと言われていますが、全員死んでしまっているのにどうすればいいというのでしょうか。そして、いったい誰が行方不明となった息子たちの責任を取ってくれるというのでしょうか。

 息子と甥っ子が、パンパ・カンガージョの警察署に押し込まれるのを見たという証人も、死亡しています。検察庁からは、この承認も連れてこいと言われていますが、すでに死んでしまっていないのです。当時、強制失踪者を探し回ったり、起こったことを他人に話したりすることは、それだけでシンチスに殺されることもあって大変危険なことでした。 1983年から1986年にかけては、毎日が恐怖の連続でした。

 今現在は、アヤクチョの街や村々は平穏を取り戻し、殺人や強制失踪もなくなりました。事件が起こってからというもの、私は毎日泣きながら息子を探していました。後に、私たちはウアマンガへ引っ越しすることにしました。ウアマンガでは、カルメン・アルトにある姉妹宅に泊めてもらいました。

 1984年12月22日の深夜零時頃、私は姪っ子たちと一緒に寝ていました。すると突然、兵士と諜報機関の男たちが、兵士たちに連行されたはずの村人たち数人と共に家に乗り込んできたのです。村人たちが、私たちの家まで男たちを案内してきたのです。彼らは一様に目出し帽を被り兵士の服を着ていましたが、村の男性たちは女装していました。家に入るなり、村人の一人が言いました「旦那、カルデロン兄弟がいますよ」。私は村人に向かって言いました。「なぜ、私の息子を引き渡そうとするの?私の息子はあなたの敵なの?」。すると、諜報機関の男が銃で私を殴り、ベッドカバーで覆いました。男たちは、息子のセバスチャンの手を鎖で縛り、imperdibleズボンと靴を履かせたうえで連れて行ってしまいました。息子のセレスティーノが、なぜ弟を連れて行くんだと叫ぶと、男たちは「だったらお前も弟と一緒に来い!」と言って、セレスティーモも連れて行ってしまいました。

 家畜を全部売ったので、まとまったお金がありました。小さな家を買うためにテーブルの引き出しに貯めていた合計800ソル、そのお金も奪われてしまいました。また、息子の録音機と身分証明書も持っていかれました。その日は、私たちの息子の他にも何人かの隣人が連れ去られましたが、全員が行方不明となってしまいました。翌日、私はカサ・ロサダへと向かいました。私の息子たちはそこへ連れて行かれたと言われたからです。しかし、そこでは警察署に行けと言われて追い返されました。周りの人が息子さんたちはきっと返してもらえると言うので、私はある警官にご馳走までして懇願しました。ですが、息子たちは帰ってきませんでした。

 なぜ、こんなことをされなければならないのでしょうか。なぜ息子エロイを連れ去ったのでしょうか。私には全くわかりません。息子を引き渡した村人に、シンチスがお金を払ったのかもしれません。村人たちは、お金につられて息子たちをシンチスに引き渡したのです。当時はほんとうに治安が悪く、多くの血が流れ、死と叫び声が溢れた恐ろしい時代でした。

 私の息子であるセバスティアンとセレスティーノに関しては、村人たちの羨望の念から連れ去られたのではないかと考えています。というのも、私の息子たちは牛の売買をしており、商売がうまくいっていたので妬まれた挙句、兵士たちに虚偽の密告をされたのかもしれません。今となっては、神のみぞ知るですね。未亡人である私は、息子たちとのもとに身を寄せていました。息子たちは穏やかで、いつも自分の商売に専念していました。彼らは、カンガージョでも商売をしていました。アヤクチョで強制失踪が頻発したとき、女性たちの多くはソシモ・ロカとセルジオ・カンチャリの両弁護士ところへ、それぞれ個別に相談に行っていました。弁護士同行のもと検察庁やPrefecturaへと向かいました。その後、アンヘリカ婦人と出会ってからは、みんなで一緒に通うようになりました。

 ロス・カビートスの兵舎へもみんなで行きました。兵士たちはお前たちを殺すと脅しましたが、アンヘリカ婦人は「いいでしょう、だったら私たち全員を殺しなさい」と答えました。また、息子たちを探して、渓谷の岩場や丘の上など至る所を歩きました。ワンタでは、15体の遺体を見つけました。ランブラス・ワイクでは、ANFASEPのメンバーであるセベリーノ氏の息子の遺体を発見することができました。遺体は犬に食べられていましたが、セベリーノ氏はそれが彼だと認め、埋葬するために家に連れて帰りました。 

 今日に至るまで、息子たちがどこにいるのか、どのように過ごしているのかも分かりません。いろいろなところを探しましたが、衣服も、骨さえも見つからない。現在、ロス・カビートスの兵舎で遺体の発掘が続いていますが、そこにも息子たちの遺体はなく、彼らの生死すらわかりません。全く何もわからないのです!

 ANFASEPメンバー達と何度もリマへ足を運びましたが、何も進展しませんでした。遺体も何もみつからない。時々、家族からはもうANFASEPに行くのを辞めたらと言われますが、探すことは辞ることなどできず、今日まで通い続けています。毎月15日と30日には、ANFASEPで行われる会議に参加するために村からウアマンガへと向かいます。時々、交通費が足らないときは、近所の人にお金を借りてウアマンガまでやってきます。当初、ANFASEPは「マエストロの家」で活動していました。そこでは、行方不明被害者の子ども達のために食堂が開かれました。今では、ANFASEPが所有する建物があるので、村からやってくると自分の家にいるような気分になります。

 今ではもう家畜は飼っていません。パンパ・カンガージョにあった家は、崩れて廃墟になってしまいました。村では一緒に住む家族もいないので、プナに小さな小屋を建てて住んでいます。私の唯一生き残った息子は、妻子と共にプナで暮らしています。私は、政府に賠償を求めます。できれば、ウアマンガに家が欲しいです。持ち家があるなら、村ではなくウアマンガで暮らしたいと思います。もし、賠償金が支払われるのなら、家を買って平和に暮らすことで、すこしは苦しみが癒せるかも知れません。

2022年03月19日更新