「私は夫を探し続けて死ぬのかもしれない」アントニア・ロドリゲスさん
証言者
アントニア・ロドリゲス・トゥピア・デ・エンシソさん
(Antonia Rodríguez Tupía de Enciso)
生年月日 1956年4月5日
州 アヤクチョ
郡 ウアマンガ
区 アコスビンチョス
集落 ルカスパタ
子どもの数 9人
アンファセップ参加年 1990年
犠牲者および事件発生日
夫、マルセロ・エンシソ・ガルシア(1990年7月19日)
それまでは、畑を耕し家畜を飼いながら平穏に暮らしていました。暴力の時代が始まり村にも危険が迫ってくると、私たち家族は問題に巻き込まないようウアマンガのコンチョパタへと移り住みました。1983年のことでした。それから数年間ウアマンガで暮しましたが、武力紛争が落ち着いたので再び畑で作物を育てるために村へと戻りました。しかし、戻った村では新たな問題が始まっていました。私達がウアマンガに移り住んでいる間に、ルカスパタ村に留まった人達は何か良からぬことに関わり始めたようでした。
ある日、畑の収穫に行った夫が何の理由もなく連れ去られました。私の夫を連れ去ったのは、ワイワスやセヘラバンバからやってきた男達と村の自警団の連中でした。私は、男達一人ひとりの名前を知っています。1990年7月19日、夫はウアマンガに向かう途中アコクロ村に寄りました。姪から聞いた話では、夫はアコクロのいとこ宅で一晩を過ごしましたが、ウアマンガに向かうためにまだ夜も明けきらないうちに起き上がって支度を始めたそうです。その頃、アコクロから少し離れたクルニアという村に、大勢の自警団がやってきて夫のことを聞きまわっていたそうです。ある村人は、夫マルセーロはもうウアマンガへ行ってしまったと言い、別の村人はマルセーロはここにいる、昨日見たばかりだと答えたそうです。自警団の連中は、奴がどこにいるか知っているのなら行って連れてきてくれと村人達に頼みました。当時、まだ子どもだった私の姪っ子が、それに気づいて夫に知らせに行ったそうです。「おじさんは外に出ないで!このまま部屋に隠れていて。」ですが夫は、「私は行かなければならない。なぜ彼らがいつも私を探し回っているのか知りたいんだ」と答えたそうです。
夫を探しに来たのは、ワマンホチャに住む男でした。男は、「自警団の奴らがあんたを呼んでいる、今すぐ行こう」と言いました。何のために呼んでいるのかと夫が問うと、何かの話をするためだろうと男は答えました。
夫は、男と共にアコクロの村からほど近いところにある礼拝堂へと向かいました。礼拝堂に着くなり、待っていた男達が夫に殴る蹴るの暴行を加えた挙句、お堂の中に閉じ込めてしまいました。心配で夫についてきていた私のいとこは、男達に見つかるや否や追い返されてしまいました。
いとこが言うには、事件が起こったのは木曜で、夫はその日のうちにパティパンパに連れて行かれたとのことでした。そして、金曜までパティパンパで拘束された後、土曜には再びアコクロに連れ戻されたそうです。そこには、さらに多くの人達が拘束されていたそうです。夫は、男達に連行されてセヘスランブラスの村を通り過ぎる際、そこに住んでいる甥っ子にこう言い残しました。「俺はワイワスに連れて行かれるけど、おばさんには来ないように伝えてくれ。子ども達を悲しませたくないんだ。」
甥っ子がそのことを伝えてくれたのは土曜日の午後でした。それを聞いた私は、どうしていいかわかりませんでした。その時の私は、帝王切開で娘のマリッツァを出産したばかりで体が回復しておらず、まだ動くことができなかったのです。
夫と共に逮捕されたのは、みな私の同郷達でした。日曜日、再びパティパンパへと連れて行かれた夫達は深い穴の中に閉じ込められていました。アコクロの村長を含め、多くの人が拘束されました。リマから来ていた叔父のラサロは、チョンタカでジャガイモの収穫を手伝っていたのですが、彼もまた捕まえられてしまいました。同様に、アコクロのドナート・メンドーサの兄弟と妻も捕まえられました。
パティパンパには、とても大きくて深い穴が2つ掘られていました。木の板で覆われたその穴に、拘束された人達は一晩中閉じ込められたまま夜を過ごさなければなりませんでした。拘束された家族を追ってきた人達も捕まえられました。彼らは、1つの家の中に監禁されて、家族に会うことを拒まれました。翌日の月曜、自警団は拘束者をワイワスに連れて行くといって村を出て行きました。それを聞いた家族はワイワスへと向かいましたが、自警団の連中はワイワスには向かわずに別のところへ行方をくらませてしまいました。私の夫が、一体何をしたというのでしょうか。自警団は、夫達をどこかへ連れ去ってしまいました。
それからほぼ1週間後、夫を連れ去った自警団を見つけたと聞いて、生まれたばかりの娘マリッツアを背負い、息子のラウルの手を引きながら夢の中を彷徨うような思いでそこに向かいました。自警団の連中は、到着した私達を殺そうとしました。「兵士達よ立ち上がれ!誰がこの女を呼んだんだ? この女はなぜここに来たんだ?この女を撃ち殺せ! 今すぐにだ! クソ野郎め!」背中の娘が泣き出し、息子のラウルも泣きながら私を引っ張りました。そこには、同郷の人達が捕らえられていましたが、彼らとは話をさせてくれませんでした。その後、彼らもどこかに連れて行かれました。
太陽はすでに沈みかけていました。息子のラウルは泣きながら言いました。「お母ちゃん、もう行こう。僕達まで殺されちゃうよ。谷間にでも逃げようよ。」私は息子に言いました。「もう少し待つのよ。殺したければ殺すがいい。奴らはお前の父さんを戻さないといけない。私達は、なんとしても父さんを見つけだすんだ。」
あたりには、とても強い風が吹いていました。男達は「さっさと家に帰って寝やがれ!」と言って私達を追い払いました。
連中の1人が、夫のポンチョを着ているのを見ました。夫のポンチョは新品でくるみ色をしていたのですぐにわかりました。それを見た私は、夫は近くにいるに違いないと思いました。ですがその時は、夫のポンチョを返せとも言えず、殺されるのが怖くて黙っていました。その夜、私は眠ることができず、子ども達をショールにくるんで一晩中家に帰らず起きていました。夜が明け再び男達に話しかけると、「お前の夫はここに連れてきていない、誰が連れてきたなんて言ったんだ」と言いました。私が、パティパンパの人達から聞いたと言うと、「誰なんだそいつは?名前はなんて言う?今からそいつを呼んで殺してやる。どんなやつだった? 大きい奴か、小さい奴か?」と男の一人が聞いてきました。私は答えました。「どんな人だったかは覚えていません、セニョール。」それから、1人の男に監視されていましたが、午前10時頃には立ち上がって行ってしまいました。
見張りの男がいなくなると、捕らえられていた同郷の女性が振り返って私に言いました。「アントニアさん、もう行った方がいいですよ。私の夫も、昨日ほとんど死にかけの状態で連れて行かれました。もしかして、ここに来る道中に私の夫を見ませんでしたか?私も、夫を探しに来たんのですが奴らに捕まってしまいました。あなたはウワマンガにしばらく暮らしていてお金の稼ぎ方も知っているだろうから。悪いことは言わないから今すぐお逃げなさい!さあ!」
そこで私は、自警団の1人にこう言いました。「セニョール、道中私に危害を加えられないよう通行証をください。もう私は行きますから。」男は言いました。「わかった。で、どこへ行くつもりだ?」私は答えました。「アコクロに寄って、そこからウアマンガに行きます。ウアマンガには長いこと暮らしていましたから。」
すると男は、マヨパンパから来た2人の男性に、「おい、この女をマヨパンパまで連れて行け」と命じました。ですが私は、「知らない人とは一緒に行けません。今日はワイチャウまで出て1泊し、明日アコクロまで行って、そこからウアマンガまで行くつもりです」と言いました。そして、最終的にはワイチャウまでの通行証を出してくれました。
その日は、ワイチャウを経由してルカスパタまで戻りました。村に着く頃にはほとんど日が暮れていました。翌日、アコクロに寄って、そこからウアマンガを目指しました。その後、方々を探し歩きましたが、結局夫を見つることができませんでした。奴らは、夫を永久に消し去ってしまいました。奴らに食べられでもしたのでしょうか、今日に至るまで夫を見つけることができません。
パティパンパの村人達に尋ねたところ、ワイワスに連れて行かれたと言われ、ワイワスに行ってみれば夫は逃げ出してしまったと言われました。夫は逃げたのではなく、殺されたのだと思います。誰に尋ねても見ていないと言われました。私の夫や同郷の4人だけでなく、たくさんの人達が行方不明となりました。
私の夫は濡れ衣を着せられました。自警団に入った連中は、最初はセンデロ・ルミノソの側についていましたが、その後自警団となって無実の人々を殺し始めたと村人達は言っていました。真の犯罪者達が、罪を裁かれることもなくのうのうと暮らしています。奴ら犯罪者は、金を払って無罪放免となったのです。私の夫は何の罪も犯していないと言うのに、ウアマンガで暮らしていたことを妬んだ連中に連れ去られたのです。「なんでアイツだけがウアマンガで平穏無事に暮らしてるんだ?」そうやって妬んだ男達が、彼らのリストに夫の名前を加え、連れ去ったのだと思います。
ある日、なぜ武装したやつらはすぐに解放するくせに、夫のような罪もない人々ばかりを捕まえるのかと、私はワイワスの自警団に抗議しました。「夫が、お前達みたいに人を殺し歩いたとでもいうのかい!いったいどこの山へ夫を連れ去ったんだ?」男達はただ私を見ているだけで、何も答えませんでした。
それからすぐに、私は事件を告発しました。しばらくして、強制失踪の実行犯の一人が逮捕されました。告発したのは、行方不明となった4人の親族、つまりはアコクロ村長ドナト・メンドーサ・デ・ラ・クルス、エリセオ・ティネオ・ユパンキ、ラサロ・パキ・カンチャリのそれぞれの家族、そして私の家族でした。その後、数人の実行犯が逮捕されましたが、彼らは全員事件への関与を否定しました。後にそのうちの1人が再逮捕され、その男は強制失踪への関与を認めました。結局、男達は収監されましたが、1年と少しの間刑務所にいただけで釈放されました。釈放された者の中には、自警団のリーダーも含まれていました。軍が自警団を擁護し、自警団の行為を正当化したため、男達は全員短期間で釈放されたのです。自警団が牛を何頭か提供して助けを請うたため、軍の人間が裁判所に手回しをして刑期が軽減されたものと思われます。
まだ裁判は続いています。今も夫を探し歩いています。たぶん、夫を探しながら私は死ぬのだと思いますが、私が死んでも子ども達が探し続けてくれることでしょう。真実を知るまで、夫を見つけるまで私達は歩き続けます。現在、実行犯の1人が刑務所に入っていますが、その男は確かに夫達をワイワスに連れて行ったが、その後、ワイワスの自警団に引き渡したので自分は何も知らないと供述しています。他方、ワイワスの人達は、拘束者に危害を加えたのはパティパンパの自警団で我々ではないと主張しており、互いに罪を擦り付け合っている状態です。
私がアンファセップに参加したのは、夫の失踪からほぼ1週間後のことでした。知人が、失踪被害者の家族による集まりがあると教えてくれたので、事務所を探して入会しました。アンヘリカ婦人のおかけで、私の子ども達はアンファセップの子ども食堂で食事をいただくことができました。ですが、私は全く食欲が湧かず、しばしば食べることを忘れて夫を探し歩きました。そのせいでひどく痩せてしまいましたが、ずり落ちるスカートを何度も引き上げながら、夫の強制失踪を訴え続けてきました。
事件から17年以上が経過した今でも、夫を探して歩き続けています。セルバにあるピチャリのあたりまで行って探し回ったこともありました。パティパンパにも何度も足を運んで、繰り返し村人に聞いてまわりましたが、夫の行方を知る人は誰もありませんでした。事件が起こって最初の5年間は、私1人で探し歩きました。私は事件の首謀者を告発しましたが、彼らは全く自分達の罪を認めませんでした。
子ども達を育てあげるために力を振り絞って働いてきましたが、働きすぎたせいで体調を崩してしまいました。上の子達は、生活が苦しかったので学校で勉強させてあげることができませんでした。下の子達は学校へ通えています。この子達は、いったいどんな将来を送るのでしょうか。ウアマンガに来たばかりの頃は、私達は借家に住んでいました。小さな土地を所有していたのですが、夫を探し歩くのに忙しくてしばらく放置していました。その地区の代表に、土地を奪い取られそうになりましたが、なんとかそこに小さな家を建てて今はそこで暮しています。
あの事件の後、村の家々は焼かれてしまったので私には家がありません。いくら泣いたって、1人では畑で種を蒔くことすらできないのです。子どもを学校にやるためには、しっかり働かなければなりません。ですが、私は常に体調が悪く、胆嚢と胃の腫瘍を取り除く手術を2度も受けました。だからもう何もできません。今は視力も落ちて、頭痛もひどく、耳も聞こえなくなってきました。酔っぱらいのようにふらついて歩いています。今は、アンファセップに通っているだけです。作業療法に参加して手芸を習っています。あの男どもが、法に基づいて裁かれることを望みます。健康を取り戻したら、働きたいし、商売をしてみたいし、屋台で何かを売る仕事もしてみたいと思っています。私は健康でありたいと思っています。病院で治療を受けたいのですが、お金がありません。