ペルー アヤクチョ

武力紛争で奪われた家族の記憶

「私はあの危険な時代を昨日のことのように覚えています」アデリーナガルシアさん

証言者
アデリーナ・ガルシア・メンドーサさん
(Adelina García Mendoza)

生年月日 1965年1月30日
州 アヤクチョ
郡 ビルカスワマン
区 アコマルカ
集落 ワルカス
子供の数 2人
アンファセップ参加年 1983年
犠牲者および事件発生日
夫、ソシモ・テノリオ・プラド(1983年12月1日)

 私は、夫と娘と共にウアマンガで暮していました。長屋の一部を借りて、そこに住まいと鍵を作るための作業所を設けて夫と共に働いていました。夫はほとんど家から出ることがなく、材料を買うときだけ一緒に出かけていました。当時は、危険が忍び寄ってくることなど想像すらせず、将来のことだけを考えて慎ましくも日々楽しく暮らしていました。夫は国立サンクリストバル・デ・ウアマンガ大学で農学を納めていました。

 1983年12月1日の夜12時30分、私たちが部屋で寝ていると、20人から25人の目出し帽を被った兵士たちが長屋に飛び込んできました。長屋には他にもたくさんの人が住んでいたのですが、兵士たちの目的は夫を捕まえることでした。部屋に入ってきた兵士たちは、夫を立たせると靴も履かせずに連れて行こうとしていました。私は、裸足で服も着ていない夫をなぜ連れて行くのかと兵士たちに言いました。すると、兵士の一人が夫の供述を取るために警察署に連れていくだけだと言いました。「だからって、そんな乱暴に連れて行くことはないでしょう!」。私は激怒し、連れて行かれようとする夫を引き戻して、彼に服を着せました。続けて、どうしてこんな時間に連れて行くのかと言うと、2人の兵士が私を殴り頭に銃を突きつけました。「こいつはテルーコだから連れて行くんだ!お前もテルーコだろう、脳みそをぶち抜くぞ!」。

 実際には撃たれずに済みましたが、私は気を失っしまい、目を覚ますと地面に倒れこんでいました。しかし、そこには夫の姿はなく、ベッドやタンスがひっくり返された状態で幼い娘だけが床で泣いました。

 夫が連れ出されるところを、大勢の長屋の住人が見ていました。兵士たちが部屋に入り込んできたとき、私は「助けて!」と叫びながらパティオに出ました。夫が隣人のエドガーに向かって「道路に面したドアを閉めるんだ!」と叫びました。

 当時は夜間外出禁止令が出ていて、午後6時から午前6時までは誰も外に出られませんでした。夫が連れていかれてしまい、家の入り口で立ち尽くしていると、隣人の1人が寄ってきて私に話しかけました。「もう泣かないで、僕はソシモが連れて行かれるのを窓から見ていたんだ。彼は両腕を縛られて頭に上着を被せられた状態で。街の下手の方に連れて行かれたんだ」。私は、眠ることができずに一晩中泣き続けました。次の日、私は1人で歩いているアンヘリカ婦人に出会いました。彼女も息子を奪われて、兵舎に連れて行かれたと言っていました。その後、アンジェリカ婦人の家を訪ねて夫に起こったことを話しました。彼女は「彼には何も起こらないと思うわ、彼は全くの無実よ」と言ってく私を落ち着かせてくれました。

 その後、警察署に出向いて夫の行方を尋ねたところ、昨夜はいづれの警官も警察署から出なかったと言われました。それでも食い下がって尋ね続けると「嘘つきめ、お前を逮捕して刑務所にぶち込んでやろうか。どうしてそんな嘘をつくんだ、ここにはソシモ・テノリオなどおらんのだ!」と怒鳴られました。警官は、犯罪捜査本部にでも行って聞いてこいというので、私はそちらへ向かいました。犯罪捜査本部では、拘束者は直接ここに送られてくることはなく、まずは警察署や兵舎に15日後に拘留されてから移送されてくるとのことでした。

 次に私は兵舎に向かいましたが、そこでも何も教えてくれませんでした。ですので、翌日には弁護士のところへ相談に行って検察庁に告発しました。検察庁では、あの夜、夫だけではなく多くの人が失踪し、その後毎晩2、3人の死体が発見されているとい言われました。

 後日、私は兵舎で働いているというチュチョン氏と知り合いました。彼曰く、隊長をはじめとした上官と知り合いで、ブランコ大尉に相談すれば夫を助け出すことができるとのことでした。私は、そのことをアンヘリカ婦人に伝え、彼女と共にチュチョン氏のところへ行きました。チュチョン氏はブランコ大尉を紹介してくました。あの夜の急襲作戦を指揮したのはブランコ大尉自身で、諜報機関のメンバー、犯罪捜査官、警官、そして兵士たちと合同で作戦を実施したことを教えてくれました。私は、泣きながら夫に起こったことを話すと、ブランコ大尉はこう言いました。「私もリスクを負っているのです。私たちもいつテロリストに殺されるかわからない。もし私に同じことがおこったら、私の家族もあなたのように泣くでしょう。だから、私も人々には申し訳ないと思っています。セニョーラ、もしあなたの夫のことを前から知っていたら、あの夜、彼を連れ出さなかったでしょう。安心してください、私がお手伝いします」。

 その時、大尉に要求されるままに5万ゴールドソルも払ってしまいましたが、全くの無駄に終わりました。また、ある時1人の若い女性から、自分は兵舎から何人もの拘束者を連れ出したことがあるから、タクシー代を払ってご馳走してくれば助け出してやると言われたので、私は要求されたお金を払いました。私には土地を買うために取っておいたお金がありました。その後、その女性はジェレナ大尉とキニョネス大佐を紹介してくれましたが、またしても騙されてしまいました。ジェレナ隊長は関わりたくないと言い、「あんたの夫は拘留されて今頃殴られているだろう。15日後に犯罪捜査本部へ移送されるだろうからそれまで待っていろ」と言われました。

 それから15日が経ちましたが、夫が釈放されることはありませんでした。後日、私たち強制失踪者の家族は、ソシモ・ルア・ロカ弁護士の事務所前に集まりました。彼は、私たちを助けてくれた弁護士で、時には書類作成の代金を請求しないこともありました。ソシモ氏は、被害者家族の女性が同士で集まってデモ行進をしてはどうかと提案してくれました。それから私たちは、代表役員を決めて定期的に集まるようになりました。当時は、まだ集会所を持っていなかったので市長の故レオノール・サモラ女史に掛け合って市庁舎の一室を貸してもらいました。軍からの迫害を恐れて、役員の名前は表に出しませんでした。

 ある時、ワタタスにたくさん死体があるというので、私は幼い娘を背負って義兄と共に出掛けました。ワタタスでは、モジェの木の根元に遺体を見つけました。その遺体は、水色のシャツとえんじ色のズボンを着ていてました。しばらく遺体を見ていると動きだしたので、まだ息があると思いすぐに義兄と助けに行きました。すると、遺体の下から小さな子犬が出てきて遺体に食らいついていたのです。それを見た私は、夫も犬に食べられているのではないかと思って腹立たしくなり、その子犬に石を投げつけました。その時、誰かが私たちに向かって銃を撃ち始めました。どこから見張っていたのかは分かりませんが、おそらく兵舎の方から銃撃されたのだと思います。幸い、銃弾が私を撃ち抜くことはありませんでしたが、私の背後や脇に何発もの銃弾が降り注ぎ、岩に当たっては火花を散らしました。本当に怖かったです。

 インフィエルニージョでは、女1人と男3人の計4人が遺体を発見しましたが、後のニュースではその時発見された遺体は全部で9体だったとのことでした。遺体は顔面の損傷が激しく、人物を特定することはできませんでした。夫を探してい歩いている最中に、脚に大きな傷を負ってしまいました。

 夫の失踪が、経済的にも心理的に私に大きな負担となってのしかかりました。夫は、私に働いてほしくないと言っていました。夫は自分の作業所を構え、作業所の稼ぎで家族を支えてくれていました。事件直後は、娘がまだ赤ん坊だったので、思うように働くことができずにとても苦しい生活でした。

 あの危険な時代を、昨日のことのように覚えています。あの事件が、私と娘かの人生設計を大きく狂わせたと言っても過言ではありません。私は、夫を奪った者たち、軍人たちを呪い、恨み、憎み続けています。現在は、畑で穀物を栽培し、収穫物を売ることで家族を養っています。娘も、学費を稼ぐために働いており、時折私を助けてくれます。

 同様に、ANFASEPからは、博物館で販売する手工芸品作りを委託されています。私たちは、危険な時代が再び戻ってくることを望んでいません。現在になっても、時折セルバの方でテロリストたちによる不穏な動きを耳にします。このようなことが二度と起こらないように、ANFASEPのメンバーとして、個々に努力を続けることで闘い続けなければなりません。都会や田舎に暮らすべての犠牲者に対する補償、政府に要請します。将来的には、地方の復興に重点を置き被災者への補償政策に力を注いでくれることを願います。政府が地方をないがしろにしていたために、テロリストたちに付け入る隙を与えてしまったのです。より貧しい人たちが多くの犠牲を払い、お金のある人たちは村を捨て移住していったのです。私たちは、正義と賠償を求め、罪を犯した者にはしかるべき刑罰が下されることを望みます。私たちは、真実と若委員会による検証と勧告に実効性を持たせるよう、政府に働きかけてきました。被害者たちへの経済的な補償をお願います、ANFASEPは、正義と経済的補償を必要としています。

2022年03月19日更新