「ひもじさの余り娘が土を食べ始めました」マルガリータ・エスキバルさん
証言者
マルガリータ・エスキバル・キスペさん
(Margarita Esquivel Quispe)
生年月日 1934年12月19日
州 アヤクチョ
郡 ヴィクトル・ファハルド
区 ウアンカライージャ
集落 ジュシタ
子どもの数 5人
ANFASEP参加年 1983年
犠牲者および事件発生日
夫、バレンティン・バウティスタ・チパナ (1983年4月14日)
息子、ペラヨ・バウティスタ・エスキバル(1983年5月?日)
弟、ヴァレリオ・エスキヴェル・キスぺ (1983年5月1日)
私たちは、ジュシタの村で不通に暮らしていました。夫は村で教師として働き、家族で畑を耕し作物をを育てて暮らしていました。家畜も飼っていました。1982年頃から、村が危機的な状況に晒され始めました。テロリストたちが、ジュシタのような小さな村々にまで侵入し、家々で略奪を繰り返しました。私の夫は、教師であるというただそれだけの理由で軍にもテロリストにも追われていました。夫は、ジュシタ村の学校の校長でした。武器を手にテロリストたちに脅された夫は、校奴らに学校を明け渡しました。テロリストたちは、いつも学校に来ては生徒たちに彼らのイデオロギーを説きました。9名いた教師たちは、学校へ入ることを許されず別の場所へと追いやられていたと夫も言っていたし、周りの人もそう言っていました。
学校で起こっていることを知った兵士たちは、夫を追跡し始めました。ですが、夫は一度としてセンデロ・ルミノソの党員になったことはありませんでした。兵士たちが私たちの家に夫を探しに来た時夫は家にいませんでした。腹を立てた兵士たちは、私たちの家を焼き払いました。
ある日、リマから戻ってきた隣人が、リマで聞いた悪い噂を教えてくれました。リマに移住した元村人たちが、村はセンデロ・ルミノソに支配され、ジュシタ村に暮し続けている私たち全てがテロリストになってしまったと言っていたそうです。あろうことか、村に軍隊の派遣を要請したのは、リマに暮らす同郷たちで、カンガージョとパンパ・カンガージョに拠点を置く軍部に対してこう言ったそうです。「どうか、あのテロリストたちを家族もろとも消し去ってください、そうすれば村は再びへいわになります」と。
1983年4月14日の朝5時頃、軍隊がジュシタ村を包囲しました。リマから来た同郷たちも兵士たちと共にいました。気づかれないように兵士の格好をしてましたが、すぐに誰だかわかりました。その夜、眠れずにいた夫は私にこう言いました。「近くで銃声が聞こえる。俺は外に出て隠れるようと思う。山の方に行ってくる」。私は、夫に何かを持たせようと思いましたが、めぼしいものはみつかりませんでした。すると夫が「トウモロコシを炒ったものを用意してくれ」と言いました。それを何で包んだのか、ビニールだったか、マントだったかは覚えていません。そうして夫は去っていきました。15分ほどたって外に出てみると、丘の上にグループが立っていて、そのうち何人か村へ下ろうとしているところでした。それをみた私は、子どもたちを義母宅に託すと、村から離れたところにある岩陰に隠れました。夜が明けようとする頃、兵士たちが四方から銃を撃ちならして村に近づいてゆくのがみえました。私はどうしたらよいかわからず、ただオコジョ(オホージョ)の村の方角へ歩き続け、最終的にはアルカメンカの村にたどり着きました。
夫はもう殺されているかもしれない。私はその場に泣き崩れながら、同時に残してきた子どもたちのことも考えました。その後、アルメンカまで逃げてきた村人が兵隊は帰っていったと教えてくれれ、私の子どもたちが畑で泣いているというので、その日のうちに村へと戻りました。その日は家弟の家で寝ました。弟は「姉さん、ここにいてはいけない。リマから来た同郷たちが、姉さんと旦那さんを消しさろうとしている、村を出ていった方が身のためだ」と言いました。午前3時、私は、弟の家に下の子どもたちを残して、娘のセネイダと共にプナへと逃げました。
私は2日間、プナに留まっていました。すると、弟の家に残してきたエンベルとイルマがプナまでやってきていいました。「お母さん、村の人たちが姿を見せに行っているよ、そうしないともっとひどいことになってしまうって」。
村に戻ると、村役の人たちから夫のことを聞かれました。私は、何も知らないと答えました。村人たちが力ずくで私を役場まで連れていって取り囲みました。村役から、あんたの夫は学校で何をしていたのかと聞かれました。私は、夫はただの教師であること、テロリストたちに脅されて学校に入り込むことを受け入れたこと以外は何も知らないと答えました。村役は、けれども夫がテロリストと一緒に歩いているのを見ただろうと言いました。妻であるあんたがどうして夫のことを知らないんだと。私は、夫のことを知らないわけがない。だから彼はテロリストとは何の関係もないと言っているのですと答えました。村役たちは、最終的に私を解放してくれましたが、いずれあんたの夫が奴らを引き連れてやってくるだろうよと言われました。それから、4、5日の間、私は村人たちから監視されていました。しかし、夫が家へ戻ってくることはありませんでした。
1983年4月24日、テロリストたちがジュシタ村のスタジアムで村人12名を殺害しました。事件の数日前、兵士たちから「3回銃がなったら、スタジアムに集まるように」と言われていました。テロリストたちは、それをどこからか聞きつけたようでした。4月24日の夜、銃声が3度聞こえました。私たちはスタジアムに集まりました。私はご近所さんたちと共に娘を抱いて出かけました。スタジアムに入る手前で、人々が泣き叫んでいる声が聞こえました。誰かが「人が殺さている!殺されている!」と叫びました。私は怖くなり、それまで寝ていた場所に引き返して隠れました。その頃の私は、家で寝ないで畑の片隅や岩の割れ目で夜を過ごしていたのです。
翌日、軍は私たちをスタジアムに集めました。既婚の女性だけ残るように命じられました。私は2人の子どもと一緒でした。ひとりを背中に背負い、もうひとりは手をつないでいました。兵士たちは女性たちを後者の中に監禁しました。そこに中尉が入ってくると、私たちを殴り飛ばしました。息子のエンベルは、恐怖のあまり割れた窓から外へ逃げました。兵士たちは「お前たちが殺したんだろう、テルーコはどこにいるんだ?」と怒鳴り、私に向かって「おまえの夫はどこにいるんだ?」と言いました。私は、殴られながら徒歩でカンガージョの兵舎へと連れていかれました。私のお腹には妊娠2か月の赤ちゃんがいましたが、あまりにも殴られたので流産してしまいました。
カンガージョの兵舎には8日間留置されました。夜は、凍えるような床で体に覆うものもなく眠りました。食べ物もほとんど与えられず、僅かに一度だけ豚に与えるような大きなジャガイモの入った小麦のスープをもらえただけでした。生き残るため私たちはそれを食べました。しかし、幼い娘は空腹に耐えられず泣きじゃくり、床の土まで食べ始めました。娘は言いました。「おかあちゃん、お家へ帰ろうよ、ご飯を作ってよ」。
同情した見張り役の兵士たちがが、パンを1袋買ってきてくれました。私は、同様に捕らえられた女性たちと分けました。そこには10名ほどの女性がいて、それぞれに子どもを連れてきていました。その後数日間は、最初の頃のような拷問を受けることはありませんでしたが、「なあテルーコよ、そろそろ話したらどうだい」と1人づつ詰問されました。私が、何も知らない、どうして私がテルーコなんですかと答えると、兵士は言いました「じゃあお前の夫は誰なんだ。 やつはテルーコのリーダーだったんだろう?はやく夫の居場所を言うんだ」。 また、兵士たちは私にこうも言いました。「お前の娘をよこせ、どうせお前は死ぬんだからな」。私は「だったら2人とも殺せ」叫びました。その後、私たちは解放されました。
解放されてから15日後、今度は、兵士たちは私と娘のセナイダをワンカピの兵舎へと連れてゆきました。Declaración(何の?)を出すように言われ、たくさんの質問をされましたが、私は夫について何も知らないと答えました。兵士たちは娘に銃を持たせたり、頭に銃を当てて脅すなどスたため、娘はすっかり怯えてしまいました。その時のトラウマで、娘は今日まで苦しみ続けています。
兄のヴァレリオも、1983年5月1日に行方不明になりました。兄はカンガージョの兵舎に連れて行かれたそうです。私は、自らが釈放されるとすぐ、コマドレと一緒に兄を探しに行きました。兵舎に着くと、コマドレが1人で隊長とところへ兄の所在を聞きに行ってくれました。話し終えて戻ってくるなり彼女は言いました。「泣かないでね、あなたの兄はもう生きていないそうよ」。
私は、泣きながら村に戻りました。聞いた話によると、カンガージョの軍人が夫をを殺してどこかに埋めたらしいです。
息子のペライヨが失踪したのは1983年5月末。当時まだ17歳でした。息子はサンファン・デ・アヤクーチョ校の中等部3年生でした。3月から4月にかけて教師のストライキが始まったので、息子は村に戻ってきていました。村では、ウルクワシという名のプナに上がって、家畜の世話をしてくれていました。
ある日、村人たちがプナに現れ、父親共に12人の村人を殺したのはお前だと言いがかりをつけ、息子を連れて去ってゆきました。息子は、ワンカピに駐留していた兵士たちに引き渡されました。このことを知った私は、知り合いの学校の先生と一緒にワンカピの兵舎に行きましたが、兵士たちは私たち向かってこう言いました。「おまえらは死にたいのか、生きたくないのか」。先生は、彼らに「彼女はペライヨの母親です。彼女の息子に何をしたんですか」と言いました。すると兵士たちは「テルーコの息子はリマへでも出かけたんだろうよ。母ちゃんに小包でも送ってくれるんじゃないのか?バス会社にでも聞きに行けよ!」と答えました。「お前らはいったい何がしたいんだ。二度とここに来るな!お前の息子は消えたといっただろう、もう忘れろよ!」。
帰り際に先生が、このまましつこくすると撃ち殺されるかもしれないからもうやめようと言いました。私は、息子を見けられないまま、泣きながら村へと戻りました。軍の駐屯地となっていたワンカピのスタジアムを後にするとき、1人の女性が駆け寄ってきて「息子さんはきっと殺されたのよ。セニョーラ、これ以上泣かないで」と言いました。
私は、村と同様に自らをセンデロ・ルミノソの党員扱いされるのが怖くて、一連の事件をウアマンガの検察に告発することができませんでした。1人では何もできませんでした。
その後、・・・のパスクアル・チパナ氏がANFASEPに入るのを手伝ってくれました。チパナ氏は「もう泣かなくていいから、落ち着いて」と私を励ましてくれました。
ANFASEPができて間もないころは、靴屋で隠れて会議をし、会が終わると1人ずつ外に出ていきました。その後、ウアマンガ市のレオノール・サモラ市長が、市役所の1室を貸してくれました。そこでは恐れることなく、行方不明被害者の家族である女性たちが正義を求めて集まることができるようになりました。そこで出会ったのが、アンヘリカ婦人とハルクント婦人でした。
1985年になるとANFASEPは行方不明被害者の子どもたちのための食堂を開きました。私は子どもたちを全員連れて、ウアマンガへと移り住みました。私は調理をを手伝いました。私の娘たちは皆、ここで食事をいただいて育ちました。それ以来、私はANFASEPに通い続けています。1985年11月から、わずかですが遺族年金を受け取ることができました。年金の申請をする際、パスクアル・チパナ氏には大変お世話になりました。それまでは、子どもを養うため焦点を回って物乞いもしました。軽食を売る仕事も手伝いもしましたが、子どもたちを養うには不十分でした。夫の友人やウアンカライリーノスの人々、そしてカサ・デル・マエストロの先生方からも生活を支援していただき、なんとか生き延びることができました。
長女のセナイダはトラウマに苦しみ続け、息子のエンベルは素行の良くない大人に育ってしまいました。子どもたちは、その幼少期にジュシタでの虐殺をはじめ、起こったことをすべて目の前で見てきたのですから、仕方のないことかもしれません。
私自身も、時折気分が悪くなったり胃が痛くなったりしますが、そういう時は薬を飲んで落ち着くようにしています。夫のことを思い出すと体調を崩し、いつも不安に駆られています。あの時、軍隊に頭を殴られたせいでしょうか、今でも頭が痛みます。もう耳もよく聞こえませんし、目もよく見えません。今は、孫の世話や娘たちの家事を手伝って過ごしています。これ以上、問題や暴力に晒されるのはごめんです。二度と犯罪や強制失踪が起こらないことを望みます。ANFASEPは、これからも若い人たちと共に前へ進んでゆくべきです。会議のために遠くから来る人たちは旅費が必要ですから、せめてもの賠償金を望みます。せっかくウアマンガに集まっても、いつもなんの進展もなく、無駄に旅費を費やすだけです。アラン・ガルシア政権への信頼はありません。また、いつなんどき問題が起こるかわかりません。彼は公約を果たすべきです