ペルー アヤクチョ

武力紛争で奪われた家族の記憶

「いつか真実がわかると思っています」ネリダロハスさん

証言者
ネリダ・ロハス・デ・シンチトゥージョさん
(Nélida Rojas de Sinchitullo)

生年月日 1938年12月7日
州 アヤクチョ
郡 ワンタ
地区 ワンタ
子どもの人数 12名
アンファセップ参加年 1983年
犠牲者および事件発生日 娘、ディナ・クレセンシア・シンチトゥージョ・ロハス(1983年11月28日)

 私達家族は、ワンタで静かに暮らしていました。私は小さな雑貨店を営み、夫は病院で働いていました。1983年11月28日の深夜1時頃、ドアをノックする音が聞こえましたが、不審に思った私は応答しませんでした。男達はドアを蹴り始めましたが、私は無視し続けました。すると今度は、棒を使ってドアを激しく叩き始めたので、長女が起き上がって私に言いました。「ママ、ドアを開けてきて! でないと奴らは壁を突き破って入ってきて私達を殺すわ。きっと奴らは、私達をテロリストだと思ってるのよ」。私はドア越しに、「誰なの!」と言いました。すると、男達は、「 クソったれめ! 開けろ! ドアを開るんだババア!」とがなり立てるので、仕方なく私はドアを開けました。

 ドアを開けると、3人の目出し帽をかぶった男達が入ってきました。誰だか見分けがつきませんでしたが、2人は背が高く、1人は中くらいの背格好でした。寝ていた子ども達も叩き起こされ、恐怖で震えながら立ち上がりました。長女はカーテンの後ろに隠れていましたが、見つかってしまいました。上の3人の娘達は外に連れ出され、下の子ども達には、ベッドで寝てるようにと男が命じました。

 私は末娘を抱え、連れて行かれる娘達を追って外へ出ました。外に出ると、3人の兵士が娘達に向かって、「両手を頭の後ろに回せ!」と命じていました。娘達は1列に並ばされると、最初に真ん中にいたディナだけが引っ張りだされ、時間をおいてから残りの2人も連れて行かれました。追いすがる私に向かって、「クソったれめ!家に帰らないとぶち殺すぞ!」と1人が怒鳴り、別の1人が、「こいつを撃ち殺せ!」と叫びました。

 恐ろしくなった私は、きっと娘達は解放されるだろうと信じて家に戻りました。しばらくすると、2人の娘だけが戻ってきました。「ディナはどうしたの? どこにいるの?」と聞くと、娘達は、「ディナは連れて行かれたの!連れて行かれたの!」と泣き叫びました。

 私の家の隣には病院がありました。当時、病院のまわりには装甲車が常駐しており、数人の警官が周囲を見張っていました。私は、恐怖を抱きながらも病院の外から娘の名前を叫びました。すると、警官の1人が、「あのババアを撃て! あのババアを撃ち殺せ!」と叫びました。そんな私を見て、「お母さん、戻ってきて! 殺されてしまう!」と娘達が叫びました。仕方なく、ディナが解放されることを信じて家に戻りましたが、娘が戻ってくることはありませんでした。

 その夜、私はディナの帰りを待ってドアのそばで眠りました。2時、3時、4時、4時半と時間だけが過ぎていきました。夜が明けると、私は幼い娘を背負って警察署へと向かいました。そこで私は、「私の娘を連れていったのはあなた達でしょう!」と言いました。警官達が、「俺達のことを見たのか?」と言うので、私は、「あんた達が私の娘を連れて行ったんだ!」と答えました。警官達は、その夜は全く外出しなかったと言い、「きっとテロリストの仕業だ、テロリストに聞いてみろ!」と言いました。

 私はその場に立ち尽くし、娘はテロリストとなんの関係ものないことを説明したかったのですが、ひどく泣いていたためうまく話せませんでした。翌日、私は検察庁の支局に告発状を出しにいきました。すると、対応に出た検察官が、「何を吠えているんだ!」と私を怒鳴りつけました。検察官は言いました。「子持ちの犬コロみたいに吠えやがって。 テロリストにでも聞いてみるんだな、お前の娘を連れて行ったのは奴らだろうよ」。いったいどのテロリストに聞けばいいのでしょう、私は泣き崩れました。その後、ウワマンガまで出向いて上級検事に告発しました。

 なぜ娘が消えてしまったのか、いまだに理解できません。全くわからないのです。娘はおとなしい子で、ゴンサレス・ヴィジル校に通う、まったく普通の中学3年生でした。事件の後、逃げたほうがいいと近所の人達に言われました。彼らは、奴らはあんたを殺しに来る、あんたの子ども達を皆殺しにするかもしれないと言って私を怖がらせました。

 その当時、長男は大学で教師として働いており、残りの子ども達はウアマンガとワンタでそれぞれ学校に通っていました。どれだけ怖いことを言われても、私はワンタに残り続けました。私は何の罪も犯していないのだから恐れるものはなく、逃げる必要もないと思いました。殺したければ殺すがいい、ただし私の家で。それに、12人の子ども達を連れてどこへ逃げればいいのでしょう、誰が子ども達の面倒を見てくれるのでしょう。私はワンタに残り続けました。

 その頃、アンヘリカ婦人が度々ワンタを訪れており、彼女に声をかけてもらったことでアンファセップに入会しました。それ以来、同じ境遇を抱える多くのメンバーと共に娘を探し続けています。当初、ワンタにも数人のメンバーがいましたが、今でも活動に参加しているのは私だけです。

 娘が行方不明になったことで、私の生活は大きく影響を受けました。狂ったように探し歩いたせいで、すっかりやせ細って骨と皮だけになってしまいました。色んな人や場所を訪ね歩いては、毎日泣き腫らしていました。今は少し元気を取り戻して、生活を維持するため働いています。時折、編み物もしますが、最近視力が落ちてきました。

 随分と時間が経ってしまいましたが、娘のことをはいまだに忘れられません。ディナの服や写真を見るだけで涙が溢れてきます。私は、どこに行くときもディナの写真を持ち歩いています。政府には個人への賠償をお願いしたいです。そして娘を誘拐した犯人達に裁きを与えてほしい。いつか真実を知れると思っています。そのために、私はアンファセップに参加し続けます。

2022年04月19日更新