「最後まで闘い続けます」フェリシータス・デルガディージョさん
証言者
フェリシータス・デルガディージョ・ヴィウダ・デ・ラモスさん
(Felicitas Delgadillo vda. de Ramos)
生年月日 1949年04月05日
地域 アヤクチョ
州 ウアマンガ
地区 カルメン・アルト
子どもの数 6人
アンファセップ参加年 1986年
犠牲者および事件発生日 夫、テオフィロ・ラモス・ガンボア(1986年5月18日)
私の夫は、サンファン・バウティスタ地区の役場で、戸籍住民課の登録係として働いていました。あの事件が起こるまでは、夫と子ども達と共に平穏な毎日を送っていました。ある時、センデロ・ルミノソの党員が、身分証明書を偽造するため本人を装って他人の戸籍謄本を引き出しました。その後、リマへと逃げたその男は、偽造した身分証明書と戸籍謄本と共に捕まりました。運の悪いことに、その戸籍謄本にスタンプを押しサインをしたのは登録係である私の夫でした。
ある日、夫の友人が私に言いました。「セニョーラ、国の諜報機関があなたの夫を探しているみたいです」。それを聞いた私は、「諜報機関があなたを探しているそうだから、逃げた方がいいわよ」と夫に言いましたが、夫は「なぜ俺が逃げなければならないんだ?俺は何も悪いことなんかしていない。もし変なことをされたら、弁護士を立てて裁判に出るつもりだ」と答えました。
夫は逮捕されないと思っていましたが、結局逮捕されてしまいました。7か月間刑務所に入れられた後、出所して元の仕事に戻りました。すると今度は、刑務所内でセンデロのメンバーと一緒に集まっていたというだけの理由で、再び諜報機関が夫を追い始めました。1986年5月18日、職場の同僚が亡くなったため、夫は4人の友人と共に葬儀に出かけました。夫は、葬儀に参列した後ビールを買って同僚らと飲んでいたそうです。その日は土曜日で、センデロ・ルミノソの結党記念日であったらしく、街を取り囲む周りの山々からダイナマイトや爆弾の爆発音が鳴り響いていました。
午前零時頃、酔っぱらった夫が泣きながら歌を歌って義母の家までやってきました。ちょうどその時、重病の義母を見舞って私達も義母の家に来ていました。酔った夫は、義母を抱きしめて言いました。「母さん、僕が死んでもどうかみんなが僕のようにあなたの面倒をみてくれますように。僕は、酔っぱらっても会いに来るくらい、いつも母さんのことを気にかけてるんだから。」
またどこかでダイナマイトが爆発しました。私は夫にもう寝るようにと勧めました。私は、カティ、ランディ、レイディの3人の子ども達を連れて義母の家に来ていましたが、残りの子ども達は自宅に残っていました。
その頃、兵士達が私達の家に夫を探しにやってきました。兵士達は、息子のフアンに夫の居場所を尋ねました。息子が、「祖母が重い病気なので、祖母の家で看病しています」と答えると、兵士達は、「そこへ連れていけ!」と言って、裸足のまま息子を連れ出しました。
明け方の4時頃でした。義母の家にやってきた息子が、「彼らが父さんを探している」と言うと、息子の後ろから黒のジャンパーを羽織り、ジーンズを履いた男が入ってきました。「テオフィロ・ラモスはどこだ!」。男に続いて兵士達が家に入り込んできました。「あなたに尋ねたいことがあるらしい」と夫を起こすと、兵士達は夫を外へと連れ出しました。男は、「ちょっとあんたの旦那と外で話があるんだ」と言いました。何を聞きたいのですかと私が訊ねると、それは言えないと男は答えました。詳しい理由を聞きたいと食い下がると、男は、「クソ野郎め!」と大声で怒鳴りました。
その間、兵士達は家の中を物色していました。表へ出てみると、夫がずた袋に入れられ縛られていました。私が、「どうして夫を縛っているの!」と叫ぶと、兵士の1人が、「黙れテルーコめ!大声を出して助けを求めたりしたら撃ち殺すぞ!」と凄みました。そして、2ブロック先に停車してあった軍用車に乗せられて、夫は連れていかれました。すでに明け方の4時半を過ぎようとしていました。
軍用車が見えなくなると、私はトウモロコシ畑に身を隠しながら走って自宅へと戻りました。家に着くなり、夫が帰ってこなかったかと子ども達に尋ねましたが、戻ってきていないと答えました。その後、再び軍用車の停車してあったところに戻ったところ、路上には血が滴り落ちていました。夫は、兵士達に殴られた後、無理やり車に乗せられたようでした。
その後、夫がどうなってしまったのかは何もわかりません。どこに連れて行かれたのかすらわからないのです。その夜、私の家に入ってきたのは20名ほどの兵士と一人の私服の男でした。日が昇ると、私は兵舎へと直行し夫を連れてこなかったかと尋ねました。諜報機関の施設にも行ってみましたが、何もわかりませんでした。
翌日の月曜日、私は検察庁に告発状を提出しました。検察官は、軍の将校と話してみればよいとアドバイスをくれました。私は、同様に行方不明になった夫を探している女性2人と共に将校への面会を申し出ました。面会は叶いましたが、将校は何も話そうとしませんでした。私たちは強い口調で尋ねました。「セニョール、私達の夫は無実です、いったいどこへ連れて行ったのですか!」すると将校は、「クソったれが!なんだと?夫は無実だと?おまえらの旦那はテロリストなんだ。奴らはトクトで軍用車を襲撃し、橋を渡っていた兵士やジャングルを巡回していた兵士達に攻撃を加えたんだ。お前らもテルーコの一味だろうが!」そう叫ぶと、将校は部屋を出ていきました。その後、検察庁で人身保護法を申請しましたが、何の成果も得られませんでした。
後に、兵舎で洗濯婦として働いているロサという女性と知り合い、夫が兵舎に拘留されていることを教えてくれました。夫がひどい拷問を受けていたこと、血を流していたことなどを彼女は語ってくれました。私は、夫の釈放を手伝ってもらうために、肉やチーズ、鶏、クイ(食用モルモット)、フルーツなどを彼女に渡しました。すると彼女は、金品を要求してきたので合計で150から200ソーレス近くを渡しました。彼女は、すぐに釈放されるよう手配するから心配しないでと言いました。ですが、いくら待っても夫が釈放されることはありませんでした。しばらくして、再び彼女に会ったときにはこう言われました。「昨夜、兵舎の拘留者を選別しているのを見たから、もしかしたらあなたの夫は別のところへ連れて行かれたのかもしれない。」
それから数日後、役場の前を通りかかった私は、夫が働いていた部屋を見つめながら立ち尽くして泣いてしまいました。すると、1人の兵士が近づいてきて泣いている訳を尋ねました。私は、連れ去られた夫の遺体すら見つけることができないと答えました。すると兵士は、兵舎に拘留されている者のうち8名が、今夜ヘリコプターでトトスに連れて行かれると教えてくれました。どうか、夫達がどこに収容されているのか教えてくださいと懇願すると、ロス・カビートス兵舎の地下室に拘束されていると教えてくれました。兵士の名前を尋ねましたが、教えてはくれませんでした。
そこで、アイハード達(代子=洗礼によって結ばれた関係)の暮らすアパチェタに助けを求めに行くことにしました。「ホルヘ、あなたのパドリーノ(自分の息子や娘の洗礼時の代父)が逮捕されたのよ。トトスに連れて行かれたんじゃないかと言われたので付いてきてほしいの。あなたはあそこに知り合いがいるでしょう?」ホルヘは、トトスの兵舎まで同行してくれました。そこにいた兵士達に夫について尋ねましたが、ここには拘留者はいない、誰も連れてこられていないと答えました。私達が尋ねている間、兵舎からは人々の呻き声が聞こえてきました。きっと誰かが拷問を受けていたのでしょう。
その夜、私達は兵舎の近くで夜を過ごしました。兵舎からは夜通し人々の呻き声が聞こえ、それに反応するように野良犬達がけたたましく吠えていました。それはまるで、祭りのような喧噪でした。翌日、私達は再び兵士達にお願いしました。「私達は、ロス・カビートス兵舎の収容者がここに連れてこられたというので、ウアマンガからはるばるやってきました。どうか中の収容者を見せてください。」すると、激昂した兵士が、「いないっていってるだろう、バカヤロウ!」と私達を罵りました。
しかたなく私はウアマンガへと戻り、ホルヘはアパチェタに帰りました。その後、遺体が投棄されているという、プラクティ、インフィエルニージョ、ヤナマ、カサウルク、そしてキヌアの谷や山の傾斜を探し歩きました。遺体を見つけてはひっくり返して確認しました。犬が死体を食べているのも見ました。ランブラスの谷では3体の遺体を見つけましたが、いずれも夫ではありませんでした。
義兄が、チャキ・ワイコに遺体が埋められているそうだと言うので、私は子ども2人と弟と共に探しに出かけました。遺体を掘り起こす前に、コカの葉とタバコを供えて祈りました。そこにはまだ血だまりが残っていて、たくさんのハエがたかっていました。近くの農家でつるはしを借り、遺体が埋められているという場所を掘り進めましたが、結局何も見つけられませんでした。その後3か月間に渡って、私は1人で夫を探し続けました。
ある時、リディア婦人と知り合いになりました。「もう泣かないで、これが私達の運命だったのよ」と彼女は言いました。彼女は、私にアンファセップを紹介してくれました。そこでは、小さな食堂を開いていて内戦で親を失った孤児達に食べ物を与えていました。私は、ルーシー、エダー、カティ、ランディ、レイディの5人の子ども達を連れて食堂に通うようになりました。
食堂開設からおよそ半年後、チラパックという名のNGO団体が、マウラ婦人、アデリーナ婦人、そして私の3人を食堂係として雇用するというかたちで、アンファセップの食堂を支援してくれることになりました。それから5年間、私は子ども食堂の調理婦として働きました。私は、食堂の責任者に選ばれ、月90ソルのお給料をいただきました。アデリーナと私が料理を作り、マウラが仕入れをしました。この仕事に携わることで、僅かながらも私の心は落ち着きを取り戻しました。たびたび訪れるジャーナリスト達が、私たちの境遇や訴えを記事にして取り上げてくれました。
ある日、アンファセップの事務所として間借りしていた「マエストロの家」を出なければならなくなりました。私達の活動を継続し、告発を続けるためには拠点となる場所が必要でしたし、なにより子ども達に食事を与える場所が必要でした。探し回ってようやく見つけたのが、現在事務所を構えているこの場所でした。事務所の建設には、リマにある3つの団体が支援してくれました。同時に、食堂を運営していくための支援もいただくことができました。
私は、アンファセップに参加して以来あらゆる活動に参加してきました。1987年にリマで開催した、女性64名、子ども7名による行方不明被害者家族によるデモ行進にも参加しました。その後も、私達はリマで何度もデモ行進を実施し、政府が私達の要求に応じるよう訴え続けてきました。
夫の失踪後、私は半ば狂人のように夫を探し歩きました。トラウマから逃れるために、常にサトウキビ酒をポケットに忍ばせコカの葉を噛みつづけるようになりました。夜、犬が吠えるたびに、夫が帰ってきたのではとしばらく外で待ち続けました。夫の衣服をみつめては泣き続けました。ですが、今になるまで夫は戻ってきません。遺体も、衣服の端切れさえも、なにひとつ見つけることができません。
夫の行方不明捜査は継続しており、兵士らによる襲撃の目撃者である義姉も、検察庁で証言をしてくれました。兵舎で洗濯婦として働いていたあの女性も証人として呼びましたが、彼女は証言を拒否しました。現在、私は乾燥ジャガイモを作って生計を立てています。子ども達も作業を手伝ってくれています。
アンファセップに参加して、既に20年が経とうとしています。これからも、共に闘ってきた女性達、そして暴力を受けたすべての被害者のために、訴訟を継続し政府からの謝罪と補償を勝ち取る必要性を感じています。私達の家族は、アラン・ガルシア前政権の時代に行方不明になりました。政府は、起こったことを認めようとしません。被害者の立場に寄り添おうとしない政府に対して、怒りを禁じえません。歴代の政権は、犠牲者に対する配慮はなく、私達の嘆願を無視し続け、罪人を裁くこともありません。だからこそ、せめてもの思いとして賠償金を要求するのです。
子ども達も大きくなり、うち2人は専門職に就くことができました。下の子達はまだ学生です。子ども達は私に、「お母さん、これ以上苦しまないで、もうアンファセップを離れて楽になってよ」と言います。私はアンファセップの理事を担当しており、必要だと感じた時は仲間達に自分の意見を伝えます。私は、アンファセップを辞めるつもりはありません。ここまで闘ってきたのですから、最後までやり遂げます。
子ども達には常々、「私が死んだら、お前たちが引き継がなければならないんだよ」と言っています。娘のカティは、父親のために闘い続けると言ってくれています。今はただ、二度とこのような暴力が起こらないことを願っています。多くの人に苦しんでほしくないからです。暴力によって多くの孤児が生まれ、大人達は職を失い、お金がないために勉学を受けらない子ども達が大勢でました。これら暴力によって引き起こされた問題のすべては、政府によって解決されるべきだと主張しています。なぜなら、政府は国民の生活を保障する義務があるからです。