「丘の上で恐怖に包まれて夜を過ごしました」マキシマ・テノリオさん
証言者
マキシマ・テノリオ・デ・パロミーノさん
(Máxima Tenorio de Palomino)
生年月日 1948年8月11日
州 アヤクーチョ
郡 カンガージョ
地区 パンパ・カンガージョ
集落 パコパタ
子どもの数 4人
アンファセップ参加年 1984年
犠牲者と事件発生日 夫、アレハンドロ・パロミノ・デ・ラ・クルス(1983年9月27日)
暴力の時代が始まる前、私たちはパコパタの村で畑を耕しながら、母と夫、そして子ども達と平穏に暮らしていました。キヌアや麦などいくつかの穀物を栽培しており、生活には困りませんでした。夫は村役を任されており、村の用事でいつもリマに出張していました。
テロリストによる迫害が村に迫ってくると、私と夫は家から衣服を持ち出し、家畜小屋や道路脇、岩影や山の裾野に隠れながら恐怖に怯えて夜を過ごしました。子ども達は、毛布にしっかりとくるんで家に置いてゆきました。
夜明けに家に戻ると、子ども達は置いてきたままの状態で寝ていることもあれば、時にはベッドから転げ落ちていることもありました。2週間にも及ぶテロリスト達の迫害が止むと、私達は家に戻りそれ以降は外に出歩かないことにしました。もう家で寝ても安全だと思っていました。軍隊が村に駐屯するようになり、しばらくの間ですが平穏が訪れ、安心して過ごすことができました。私と夫は台所に近い部屋で眠り、3人の子ども達は別間のベッドで眠りました。
1983年9月27日の夜10時頃、私達はすでに床に就いていました。突然、ドアの前で、「起きろテロリストめ!」という怒鳴り声がしたかと思うと、南京錠がかかったドアが蹴破られました。家に入ってきたのはシンチスと兵士達でした。目出し帽を被り、深緑色の服にブーツの出で立ちでした。兵士達は、「起きろ!テルーコめ!」と叫ぶと、私達2人を床に投げつけました。夫は寝間着に使っている古いズボンを履いていて、私はスカートを履いていました。兵士達は、私を台所の床に叩き付けました。そして、シンチスと兵士の2人が、「声を出したら殺すぞ!」と脅して私をレイプをしました。しばらくレイプされ続けた後、私は部屋の隅へと逃げました。殺されるかもしれないと恐怖に震えながらも、「殺せるもんなら殺してみろ!」と叫びました。男達は、台所の扉を針金で縛り、私が出られないようにして去ってゆきました。その後、夫がどうなってしまったのかわかりません。ベッドの下に隠れていた娘によると、兵士達は夫に無理やり服を着せ、髪を引っ張って連れて出していったとのことでした。
私はドアを叩き割って台所から出ることができたのですが、あの時どうしてあんな力が出たのかわかりません。きっと怒りで打ち震えていたからでしょう。兵士達が去った後、家の中は真っ暗で、手探りで自分の部屋に入るがやっとでした。長女がマッチを見つけ出してあたりを照らしてくれました。灯りに照らされて、怯えきった娘達の顔がみえました。私は娘達に毛布をかけて、隣の家まで行ってくるから待っているようにと言いました。寝間着のまま、裸足で隣人のところまでゆきました。隣人は、家の外に出て子ども達と共に泣いていました。彼女は私にこう言いました。「コマドレ(自分の息子や娘の洗礼時の代母)、私の夫も連れて行かれたわ、シンチスに連れて行かれたのよ。奴らが夫を連れ去ったのよ」。
私達はどうしていいかわからず、一緒になって泣きました。そして、彼女と共に別の隣人宅へと向かいました。彼女の家は大丈夫だろうと思っていたら、そこでも同じことが起こっていました。隣人は、同様に夫が連れ去られたと答えました。
絶望的な気持ちになりながらも、どこに夫達を連れて行くのか聞いた人があるかと尋ねました。すると1人の婦人が、カンガージョへ連れて行くと兵士が言っていたと答えました。私達は、その言葉を信じてカンガージョへと向かいはじめました。すると、パコパタ村を出てすぐのところ止まっていた1台の軍用車が、カンガージョへ向かって走り出しました。
この時間にはまだ車が走っていなかったので、私達はいったん村へと引き返し、改めてカンガージョに向かう日をコマドレと決めました。帰宅してからも、これから夫はどうなってしまうんだろうと思うと、悲しくて居ても立っても居られませんでした。
翌朝、 コマドレと私はカンガージョの街へと向かい、警察署にいたシンチスに夫達の行方を尋ねました。すると彼らは、ここへは誰も連れて来られていない、別の場所へ連れて行かれたのだろうと言いました。その後、ひとりの弁護士と契約し、あの夜連行された夫達がカンガージョの警察署にいるのかを聞き出してもらおうとしました。弁護士からは、「書類を作成して釈放してもらために、十分なお金を用意する必要がある」と言われました。カンガージョに着いて、既に3日が経っていました。シンチスは何名かはここに拘留されていると言いましたが、名前までは教えてくれませんでした。私達は、さらにお金を用意するためにパコパタの村へと戻りました。
翌日、カンガージョへ戻ると、ちょうど3名の逮捕者が警察署を出て移送されるところでした。私は、彼らの1人に夫の所在を尋ねました。すると男性は、「あんたの夫はカンガージョにはいない。俺達は連行されてすぐにあんたの旦那達とは別の部屋に入れられたんだ。俺達は、警察署から逃げようとしたところを捕まった。旦那はパンパ・カンガージョに連れて行かれたんだよ。」
夫がいないのに、どうして弁護士にお金を払い続けなければならないのでしょう。コマドレと私は、パンパ・カンガージョへと向かいました。警察署に出向いて尋ねましたが、私達の疑いを否定し誰もが同じ答えを返してきました。「きっとウアマンガかビルカス・ウアマンにでも連れて行かれたのだろう、私にはわからない。」さらに、おまえらもテルーコだろうなどと罵られましたが、私にはテロリストの知り合いもいないし、そいつらがどんな顔をしていて、どんな服装をしているのかすら知りませんでした。
あの日連れ去られた村人のうち何人かは、移送中に殺されてしまいました。彼らの家族は、遺体を発見して埋葬することができました。私達の夫達は、連れ去られたきりなんの情報も得られないままでしたが、私はあきらめずに探し続けました。
ウアマンガのロス・カビートス兵舎にも行きましたが、そこでも何も教えてくれませんでした。兵士からは、「これ以上探し続けると殺すぞ!」と脅されて機関銃を突き付けられました。兵舎に入ることさえ許されませんでした。その後も、あらゆるところを探し歩きましたが、夫を見つけ出すことはできませんでした。この世に正義などありはしないのです。
その後、私は3人の子どもを連れてウアマンガへと移り住みました。最初は、オルガという教師のお宅で間借りすることになりました。ウアマンガには自分の家がなかったので、部屋を借りるしかなかったのです。私達家族は、つらい思い出の残る村や家や畑を捨てて、ウワマンガで暮らしました。借りた部屋で娘3人と暮らしながら、夫を探し続けました。
私は、再びロス・カビートスの兵舎に向かいました。中に入ろうとすると、「ここに囚人はいない、警察署にいるはずだ」と追い返されました。言われるがままに警察署に向かい被害届を出しましたが、ここには誰もいないと言われました。彼らは、収容者は犯罪捜査本部にいるだろうからそこへ行ってこいと言いました。言われるがままに犯罪捜査本部にも行きましたが、帰ってくる答えは同じでした。
私は、毎日ウアマンガの街を歩き回りました。検察庁にも告発しましたが、そこにも正義はありませんでした。3か月、4か月、5か月といくら時間が過ぎても何の進展もなく、夫を見つけ出すことができませんでした。ある時、夫のために食べ物を持って犯罪捜査本部へ行きました。若い男性が食べ物を受け取り、夫の名前を書いて持って行ってくれたので、私は夫がそこいるから食べ物を受け取ってくれたのだと思って喜びました。ですが、結局その食べ物は別の囚人に渡されただけでした。
歩かなかったところはないというくらいあちこち探し回りましたが、夫を見つけ出すことはできませんでした。そして、私もアンファセップに参加するようになり、同じような立場に置かれたご婦人達と何度も話し合いを重ねるようになりました。アンヘリカ婦人は、一緒に行動すればもっと良い結果を得られるはずだからと私達を励まし続けてくれ、私達は一緒になって家族を探し続けました。
もう、故郷の村のことは忘れてしまいましたし、時間の経過と共に家も崩れてしまいました。私は今でも正義を求め続けています。ウワマンガでは、水道のない崩れかけた家屋を借りて暮らしています。子ども達にも十分な教育の機会を与えることができず、上の2人は最後まで学校へ通わせてあげることができませんでした。下の2人はなんとか学校へ通わせました。上の子達は、私達家族を支えるために働いてくれています。
食べるため、家賃を払うために働き続けてきましたが、今は病気になってしまい動けません。夫がいなくなったことで、私はひどく傷つき、その後の生活は一変してしまいました。子ども達は、いつも私に聞いてきました。「パパはどこに行ったの?どうして帰ってこないの?どこにいるの?」たとえ、骨だけでもいいから夫を見つけだして、こころ穏やかになりたいのです。
少なくとも家族が健康に暮らせるように、家屋の建築を助けてもらいたいです。私は、行方不明者の家族に対する賠償を求めます。将来、このような危険に二度と晒されることのない暮らしが、暴力やその他の問題に巻き込まれない暮らしがしたいのです。今は借家に住んでいますが、いつか自分の家を持ちたいですし、娘達と一緒に暮らしたいとも思っています。一緒に暮らす80歳になる母親は、まだまだ私の助けを必要としており、貧困のなか共に苦しんでいます。政府には、どのような援助でもいいのでお願いしたいです。