ペルー アヤクチョ

武力紛争で奪われた家族の記憶

「死体の上に倒れこみました」ルシアパリオナさん

証言者
ルシア・パリオナ・ジャモハさん
(Lucia Pariona Llamocca)

生年月日 1931年10月15日
州 アヤクチョ
郡 ウアマンガ
地区 ビンチョス
集落 プタハ
子どもの数 16人
アンファセップ参加年 1985年
犠牲者および事件発生日 息子、ヘラルド・パブロ・アルビテオ・パリオナ (1984年6月24日)

 私は15歳で結婚し16人の子どもを授かりましたが、そのうち12人は疱瘡で亡くなりました。私達はプタハの村で暮らしていましたが、暴力から逃れるためウアマンガのプエブロ・リブレ地区へと移り住みました。主人は織物職人として働き、息子のヘラルドはアヒルやライオンなどのかわいらしい編みぐるみを作って売っていました。私は、市場で食事を作り売るかたわら、織物用の羊毛を紡いだり染めたりといった仕事を手伝いました。時折、織りや出荷の作業も手伝いました。息子のアルフォンソも織りの仕事に携わっていたため、生活は安定していました。

 既に亡くなってしまいましたが、当時、近所にマリアという若い女性が住んでいました。その頃、アラメダの渓谷で何名かが殺害されたのですが、マリアはその人達の死を息子のヘラルドのせいにしていました。

 それは、サンファン・バウティスタ地区の創立記念日の正午頃でした。その時、私は息子の妻と一緒に料理をしていました。家で編み物をしていた息子が休憩のために外へ出ると、マリアとその妹のアリシアが、彼女達の家の前で8名ほどの警官と話し込んでいました。

 しばらくすると、警官達が私の家へ乗り込んできました。そこには、アリシアと同棲している警官の男もいました。その男は、「こいつがアラメダ事件の犯人だ!」と叫ぶと、息子を外へ連れ出そうとしました。私は、息子を連れて行かれまいと入り口に立ちはだかりましたが、「息子さんには付いてきてもらわないといけない、しばらくしたら戻してやるから」と押しのけられました。

 息子の後を追って兵舎へと向かいましたが、すでに息子は兵舎の中に運ばれてしまっていました。しばらく入り口の辺りで立ち尽くしていると、兵士が寄ってきて私を投げ飛ばし銃床で殴り付けました。地面に打ち付けられた私は、大量の鼻血を流しました。

 翌日、再度兵舎へと向かいましたが入れてはもらえませんでした。1週間近く通い続けた頃、警官の1人が息子を戻してやると言いました。ですが、それは嘘でした。いつまでたっても息子は戻ってこないので、私は検察庁に告発することにしました。

 後に、息子のヘラルドがユラックユラックに住む娘のクレリアの家に、警官に連れられてやってきたことを知りました。ヘラルドは、隣人のマリアとアリシアがアラメダでの事件を自分のせいにしているとクレリアに話しました。彼女達のついた嘘のせいで、このような問題に巻き込まれてしまったとも語ったそうです。また、毎月役場から配給される米や油や砂糖を、私に内緒でマリアに渡していたとも語ったそうです。マリアは、食料を渡さないと今夜か明日の夜にはあなたの首が飛ぶだろうと言って息子を脅していたそうで、死を恐れた息子は彼女に食料を渡していたのです。

 それを聞いた私は、プタハの村へ戻るたびにチーズや肉を持ってきて彼女に渡すことにしました。すべては息子が殺されないためでした。ある人から、マリアは同志であるセンデロ・ルミノソのために食料を集めていると教えられました。私は、嘘偽りで息子を逮捕させたマリアを刑務所にぶち込みたくて検察に告発しました。ですが、マリアは検察官の前ですべてを否定し、あろうことか私の息子はテロリストだと言いだしたのです。

 マリアとアリシアこそがテロリストのメンバーなのです。その後、私の息子を連れ去った警官、つまりはマリアの内縁の夫は、マリアの妹アリシアを強姦した罪で投獄されました。その後、アルコール依存症になったアリシアは病院で亡くなりました。しばらくして、アラメダ渓谷での事件の犯人が捕まりました。犯人は息子ではありませんでした。息子は、隣人による虚偽の告発によって連れ去られたのです。

 私は、夫がまだ存命だった頃からアンファセップの活動に参加し始めました。メンバーとは頻繁に話し合いを重ね、デモ行進にも参加し、リマへ出向いては支援者と共に被害の現実を訴えて歩きました。

 兵舎の入り口で抗議行動をしていた時などは、兵士達がアンヘリカ婦人に向かって、「お前を殺してやる!」と凄んできました。その時、私達はみんなで手を繋いで、「殺せるものなら殺してみろ!」と言い返しました。

 私は息子を探すためにひたすら歩き続け、あらゆる場所に足を延ばしました。プラクティやサクラルミでは、犬が死体を貪り食っていました。そこには、幾人もの若い男女やご婦人が投げ捨てられていました。ある時、インフィエルニージョで息子の遺体を見たという人があるので行ってみましたが、そこに息子の姿はありませんでした。そこにはたくさんの遺体が転がっており、中には焼かれてしまっているものもありました。

 ある時、私は息子に似た遺体を見つけました。取り乱してしまった私は、山の傾斜に身を投げるように倒れ込んでしまいました。幸い、一緒に探し歩いていた息子の子ども達がとっさにわたしのスカートを掴んだため、谷に転げ落ちることなくすみましたが、私はてんかんの発作を起こしてしまいすぐに自宅へと運ばれました。

 ワンタの駐屯地へ探しに行った時には、たくさんの遺体が3列に並べて置かれていました。遺体の中に息子の姿を求めているうちに、また発作を起こしてしまいました。意識を失った私は遺体の上に倒れ落ちました。その後、ワンタの病院に連れて行かれましたが、目が覚めた時には息子が私を抱きしめていて、娘も私の手を握りながら泣いていました。

 いくら時が過ぎても、息子は見つかりませんでした。私達は、近隣の村々まで足を延ばして息子を探しました。あの村に捕虜が運び込まれるのを見たと聞けば、すぐにその場所へと向かいました。21頭の牛を売って資金を作りながら、多くの知らない土地まで出向きました。沿岸部のイカやパルパにも行きましたが、てんかんの発作が始まってからはあまり遠出をすることができなくなりました。

 夫は、「お前は死んでしまうかもしれないから、もう遠出をするな」と言い、1人で息子を探しに出かけました。夫はウアマンガの南に位置するカナリアやカンガージョへも向かいました。あそこに息子が連れて行かれたかもしれないと言われれば、探しに行かないわけにはいきませんでした。カナリアでは、誰一人として夫に宿を提供してくれる人はいませんでした。あの時代、見知らぬよそ者はテロリストかもしれないと疑われ恐れられていたのですから、仕方のないことです。夫は、仕方なく岩の割れ目や灌木の間で幾日も夜を過ごしました。そのせいもあったのでしょう、息子を探す旅から戻ってきた夫は、間もなくして亡くってしまいました。

 私の息子は15歳の時に行方不明になりました。彼は織物を織りながらロス・リベルタドーレス校の中等部に通っていました。息子を失ったことで、私はあまりにも大きなショックを受けてしまいました。私はてんかんを患っており、お腹と手足が常に腫れあがっています。いつもとても気分が悪くめまいに悩まされています。てんかんの発作が起きると、いちど命が果ててまた生き返るような恐ろしい感覚に襲われます。今のところ、私は病院へも通わず、孫達が服を洗ってくれたり食事を与えてくれたりと面倒をみてくれます。

 悲しくなって泣き出すたびに、てんかんの発作が私を襲います。上着が汚れているのにいま気づきましたが、どうやらこれは一昨日に発作が起きた際に薬を吐き出してしまったからのようです。よく痙攣を起こします。どうしようもなく悲しみで涙が流れ続けます。寝るときはいつも、息子ヘラルドのことを考えます。先日、ヘラルドがマンドリンを奏でて口笛を吹きならしながら、私に話かけてくる夢を見ました。息子は私にむかって、「母さん、起きあがってこっちへおいで」と言いました。私は夢遊病者のように起き上がりましたが、そのまま転んで床に頭を打ち付けました。私は息子のことを想い、苦しみ続けています。数日間食事をとらずに水だけで過ごすこともあります。

 息子の同級生が弁護士になっていたり、教師になっていたりするのを見るととても悲しくなります。先日、息子の同級生が私に1ソルをくれて、「セニョーラ、どうかもう泣かないで。神様にお任せしましょう」と励ましてくれました。今、私は別の息子の家族と共に暮らしています。離れにトタン屋根の小さな部屋を作ってくれて、そこで暮らしています。病気を治したいです。薬代や通院費を政府が出してくれることを望みます。話しているとまた悲しくなってきたので、発作が起きてしまうかもしれません。

2022年03月19日更新