「夫の衣服を手に探し続けました」セルヒア・フローレスさん
証言者
セルヒア・フローレス・ヴィウダ・デ・キカーニョさん
(Sergia Flores vda. de Quicaño)
生年月日 1949年10月7日
州 アヤクチョ
郡 カンガージョ
区 トトス
集落 ベラクルス
子どもの数 7人
アンファセップ参加年 1983年
犠牲者 夫、アルビノ・キカーニョ
暴力沙汰が起こるまでは、とても穏やかな日々を送っていました。私の家族は、ワルチャンハの集落で麦やキヌアなどの穀物を栽培して暮らしていました。1983年7月1日、パコパタにある中等学校の教師をしていた当時41歳の夫は、家族と共に眠りについていました。夜中の3時頃だったと思います、にわかに裏庭の家畜達が騒ぎ始めました。すると、家の扉は内側から鍵がかかっていたのですが、壁を乗り越えて複数の男達が部屋に乗り込んできたのです。
その直後、寝室の近くで銃声がして、「起きろ!さっさとロウソクに火を付けるんだ!」と男の1人が叫びました。当時、私達の暮らす集落には電気が通っていませんでした。ロウソクを灯すと、3人の目出し帽を被った男達が寝室に乗り込んできて、ベッドから出ろと夫に命じました。夫は寝間着のまま、靴も履かずに外へ連れ出されました。夫の後を追おうとしましたが、目出し帽を被った男の1人が「もっと灯りを持ってこい」と要求し、夫も同じことを言うので、部屋に戻ってロウソクに火を灯しました。その後、部屋を出ようとしましたが男達は許してくれませんでした。
男達は私の耳もとと胸に銃を突き付けました。そのうちの1人が私を睨み付けながら、「銃と弾薬はどこだ?」と尋ねました。男達は、夫が所有している何冊かの本と、夫アキレス・イノストロサの名が記されたフォルダーを持ち去りました。男の1人が、私を殴り付けながら「奴もテルーコ(テロリスト)なのか」と聞いてきたので、私は何も知らないと答えました。
男が、「くそったれ!殺されたいのか!」と言ってきたので、私は、「殺せばいいさ!死ぬのなんか怖くない、今日死のうが明日死のうが同じことなんだから」と言い返しました。言い終わるや否や、1人が近づいてきて私の背中を殴りました。
夫を連れ出した後も、目出し帽を被った男が1人居残り両手を首の後ろに回して動かないようにと私に命じました。そして何度も、お前を撃ち殺すと脅しました。あまりの怒りに恐怖心が消えた私は、「だったら殺してくれ!」と叫びました。
いったい何をしたというんだ、なにか罪を犯したとでもいうのか、私は頭の中で自問自答を繰り返しました。しばらくすると、男が外に出て行ったので私はそのあとを追いかけました。道中、誰に会うこともなく、その男がパンパ・カンガージョの方角へと走っていくのを見届けただけでした。
あの夜、私の家に乗り込んできたのは、シンチス(国警の対テロリスト特殊部隊)と軍の兵士達で、目出し帽を被った男達は全部で6人いました。目と口しか見えなかったので人物の特定はできませんでしたが、奴らは軍服を着ていました。
夜が明けるとすぐ、パンパ・カンガージョの警察署に出向いて助けを求めましたが、警官達はまったく取り合ってくれなかったので、仕方なく一旦家に戻りました。午前10時頃、物売りを装い様子を伺いに行った夫の姪が戻ってきて、警察署内で夫の姿を見たと言いました。私はすぐに警察署に向かって夫を解放するよう求めました。すると、警官は私達に向かっていきなり発砲し、弾丸は姪っ子の耳をかすめました。姪っ子はすっかり怯えてしまい、黙り込んでしまいました。「お前の夫を見なかったかだと? お前がここに奴を連れてきたとでもいうのか? きっとウアマンガかカンガージョにでもしょっ引かれたんだろうよ!」そういうと、警官達は銃床で私を殴り付けました。
彼らはかたくなに夫の所在を否定し続けました。警官達の恫喝にすっかり怯えてしまった私は、泣く泣く家へ戻りました。翌日、私は事件を告発するためにカンガージョの街へ向かい、日曜の午後には州都ウアマンガまで足を運びました。そして、翌7月4日、検察庁にて告発の手続きを済ませました。ですが、検察官や弁護士会、その他政府機関にいくら尋ねても、夫が失踪した理由を答えてくれる人はいませんでした。
事件後しばらくは、夫の行方を求めて村とカンガージョやウアマンガを行き来する生活をしていましたが、最終的にはウアマンガに留まることにしました。1983年9月13日、私は妊娠4ヶ月のおなかを抱え、4人の幼い子ども達と共にウアマンガに移り住みました。それ以来、私は故郷のワルチャンハには戻っていません。最初のうちは、家もなく知り合いもいなかったのでこの街で生活するのはとても大変でした。一度などは、部屋を借りようとするとテロリストに貸す家はないと追い返されたこともありました。
どんなに辛くても、私は夫を探すことを一度たりともやめたことがありません。いつでも夫のことを想い、見つかった時にはすぐに着替えられるよう彼の衣服を携えながら歩き続けました。ですが、今日に至るまで夫の居場所はわからないままです。私の夫は、どこの政党にも属しておらず、ましてやセンデロ・ルミノソの党員などではありませんでした。彼は全くの無実です。
1983年8月、私は義姉の勧めでアンヘリカ婦人に会いました。以来、アンヘリカ夫人とは頻繁に会うようになりましたが、当時はまだアンファセップは団体として立ち上がっておらず、同じ境遇を抱える女性達が個人的に集っているだけでした。私達を支えてくれているロカ弁護士を通じて、夫の行方を捜査してくれるよう政府にお願いしてもらいましたが、なかなか思うようには進みませんでした。
ある時、名前は忘れましたがある男が私達のもとへ現れ、「失踪者は軍の兵舎にいるから、お金さえあれば助け出すことができる」と言いました。その言葉を信じて男にお金を渡しましたが、その後男は行方をくらましてしまいました。
ある時、1人ずつ闘うのは大変だから、協会を設立してはどうかとの提案をロカ弁護士より受け、私達はアンファセップを設立しました。その後、私達は自らの力で少しずつ活動を始めました。手始めに、リマでデモ行進を実施するための資金集めを行いました。小さな子ども達を預ける人がいなかったので私は参加できませんでしたが、リマに出向いたメンバーは、宿泊費がないためにカンポ・デ・マルテ公園で寝起きしながら過ごしたとのことです。
夫の所在を求めて、郊外にあるプラクティやインフィエルニージョの谷間に投げ捨てられた遺体を確認に行きました。ですが、多くの遺体は犬や豚に食べられてしまっており断片しか残っていませんでした。手足が数本しか残っていない状態で、人物を特定するのは困難でした。
私達は、起こったことに対する公正な裁きを求め続けていますが、今日に至るまで実現していません。暴力の時代、私達アンファセップのメンバーは、「テロリストの妻、テロリストの母、テロリストの家族」などと蔑まれ(実際はテロ行為の被害者であるにも関わらず!)、多くの無理解な市民からも疎外され続けました。多くの殺戮が繰り返されましたが、それによってテロリストは駆逐され、暴力の時代は終わりを告げたといえるのでしょうか。いいえ、今日センデロ・ルミノソの残党は、ペルー東部の熱帯雨林地域に拠点を移し、コカの葉の買取り価格改善を求めて暴力的にストライキを繰り返すコカ栽培農家や、人殺しさえもいとわない麻薬密売人らと手を組んで罪を犯し続けています。
私はセンデロ・ルミノソのリーダーであるアビマエル・グスマンを恨みます。彼は多くの人々を扇動し、欺き、結果として無数の死をもたらしました。同様に、「1人のテロリストを殺害するために、結果として百人の農民を殺すことになっても、それはやむを得ないことだ」などと言っていた当時の政府を許すことができません。実際に、1人のテロリストを殺すために、99人の何の罪もない人々が殺されてしまったのです。
今は少し落ち着きましたが、あの日のことがつい昨日のことのように蘇ってきて、泣いてしまうことがよくありました。私は、あの日のことを忘れることができませんし、子ども達も忘れることはないと思います。子ども達は、貧しさのせいで十分な教育を受けられず、結果としてまともな仕事に就くこともできず、政府からも十分な支援を受けられないままに育ちました。もし夫がいてくれたら、生活を支えてくれただろうにと思います。現在、私はわずかばかりの寡婦年金を受給しており、それを子ども達の教育費に充てています。
私は、政府が個人に対して賠償をしてくれることを望みます。道路や学校、医療施設の建設といったものは、国民に対する政府の義務であって、これらをもって国内武力紛争の被害者に対する賠償とはならないと思っています。すべての被害者や孤児達に対して、医療費の補助、学業支援、雇用機会の創出といった賠償を求めます。