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アイヌ・コタンのある風景と遺骨の帰還

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B-1 サクㇱコトニ

サクㇱコトニ川

 北海道大学の正門をくぐり、まっすぐ進むと緑地が見えてきます。春にはヤマザクラが咲き、夏にはハルニレやヤナギが緑陰をつくり、秋には紅葉が鮮やかで、冬は真っ白く覆われる、北大札幌キャンパスの中でももっとも美しい場所のひとつがこの緑地、中央ローンです。その横に立つとここが低い傾斜になっているのがわかるでしょう。その底を一本の水路が流れています。これがサクㇱコトニ川の跡です。跡と書いたのはもともと天然の川であったのが、1951年ごろ都心の地下工事のために水脈が断たれて水が涸れ、後になって浄水場から人工的に水を引っ張ってきたからです。緑地を下りて水路沿いに歩いた中ほどに説明版が立っています。

サクㇱコトニ川説明板

 この説明板には「サクシュコトニ川」と書かれていますが、山田秀三氏によるとこれは誤りで、アイヌ語の原義に近い発音は「サクㇱコトニ」です(1965:46)。「サ」は浜や大川端の方(この場合サッポロ-豊平川の古流・伏籠川に近い方の意:山田2000:19)、「クㇱ」は「を通る」、「コトニ」は「くぼ地になっている所」の川、つまり「サッポロの近くを通るコトニ川」という意味です。

 この説明版のもうひとつの問題は、この川の近辺にアイヌ・コタンがあったことに触れていないことです。この点についてはこれから見ていくことにしましょう。

 さて、このサクㇱコトニ川の今は無き水源を辿ってみましょう。北大生協クラーク店の南側から構外に出て横断歩道を渡ります。数十メートル進んでから右に折れるとやはり傾斜を下っていきます。この傾斜が水の流れのサインです。右手に精華亭という古い建物があり、その向かいに小さい緑地が目に入ります。これが偕楽園緑地です。その最奥部に丸石が置かれている所があります。ここにかつて湧き水があり池となっていたのです。

 このような泉がつくった池をアイヌ語でメㇺいいます。ここのメムの名は「ヌㇷ゚サㇺメㇺ」、野のかたわらの泉池という意味です。なんと麗しい名前でしょう!ここよりさらに上流、JRの高架の南側の高層マンション敷地内に別のメㇺがありました。これらの湧き水は上述のように地下工事のために絶えてしまいました。

 今ではわずかな緑地が残り、そこに人口の水路が復元されている程度で、それ以外はコンクリートとアスファルトで覆われ、鉄筋の建物に占拠されています。しかしこの土地には、明治初期までまったく別の風景が広がっていました。清冽な湧き水がこんこんと出でて川筋となり、鮭鱒がさかのぼり、チキサニ(ハルニレ)が立ち並び、林床にはトゥレップ(オオウバユリ)やオハウキナ(ニリンソウ)などが生え、ユㇰが行き来し、そしてアイヌのチセからは囲炉裏の火の煙が上がる。そんなアイヌ・コタンのある風景へ、時をさかのぼって旅をしましょう。

参照文献
山田秀三1965『札幌のアイヌ地名を尋ねて』楡書房。
山田秀三2000『北海道の地名』(アイヌ語地名の研究 別巻)草風館。

2022年03月20日更新
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