A-5 ユㇰ・ニクリ - 山鼻
A-4でご紹介した『コシャマインの末裔』に「ユク・ニクル」(ユㇰ・ニクリ)という地名が出てきました。それは1876(明治9)年に山鼻屯田が入植してから山鼻と呼ばれるようになった地区です。
山田秀三氏は
「角の生えた鹿群を林に見たててユㇰ・ニクリ(鹿林)といったのでもあろうか」(山田1965:30)
と述べています。鹿が群れてその角が林のように見える風景!もっとも山田氏は後年になると「yuk-kikur(鹿の(来る)・林)の意だったろうか」との解釈をしています(山田2000:33)。また氏は明治時代にはユㇰ・ニクリ-山鼻からその北側の円山地区にかけてが鹿の通り道であったことを、和人の古老からの聞き取りで明らかにしています。
円山の三関武治さんの御宅は円山の開拓当時からの旧家で、先代からの伝承をよく記憶しておられる。鹿の事を聞いたら、
『鹿は、季節が来ると真駒内の沢から豊平川を渡り、山鼻、円山を相手に押寄せて来て、ここで角を落として行った。明治十四、五年迄は、畑に鹿が入って作物を食べて仕方がない。荒らされないために鹿囲を作った。六尺位の割木をたて廻し二段位の横木をつけたもので、チャツと呼んでいた(山田1965:30)
川には鮭が大挙してさかのぼり、山の麓を鹿が林のごとく移動する。そんな豊かないのちの風景が、ほんの百数十年前までサッポロにはあったのです。
参照文献
山田秀三1965『札幌のアイヌ地名を尋ねて』楡書房。
山田秀三2000『北海道の地名』(アイヌ語地名の研究 別巻)草風館。
2022年03月20日更新