I 対雁と樺太アイヌ
対雁(ついしかり)は、石狩川の河口から約20kmの上流に位置する場所です。1941年に流路が変更されるまで、サッポロー豊平川はここで石狩川に合流していました。山田氏は対雁という地名を「to-e-shikari=沼が・そこで・回る」というアイヌ語から来ているのではと推測しています(山田2000:40)。
この石狩河畔の土地に、現在では札幌市中心部から車で40分程度で到着できますが、ここには樺太アイヌの苦難の歴史が刻まれています。
1875(明治8)年5月7日、日本とロシアの間で樺太千島交換条約が締結されました。これは、それまで日本とロシアの「雑居地」とされてきた樺太(サハリン)をロシア領、択捉島北側のウルップ島からシュムシュ島に至る18島を日本領とするものでした。この条約締結の動きには、開拓長官・黒田清隆の「樺太放棄論」の影響がありました。しかしこの条約は、そこに暮らす先住民族(樺太アイヌ、千島アイヌ、ウィルタ、ニブフなど)には何の相談もない、2つの帝国間の国境線画定でした。この「線引き」によって、樺太アイヌは翻弄されることになったのです。
この条約では、樺太に住む先住民族は3年の猶予期間の内に、自分の国籍を選ぶことができるとされていました。しかし実際には1875(明治8)年に条約が締結されてから3か月程度の短期間で、開拓使は樺太南部アニワ湾のアイヌに日本移住を求めました。その結果、同年9月841名の樺太アイヌが、ひとまず樺太の対岸に当たる宗谷に送られました。このために家族が離れ離れになるケースもあったといいます。
開拓長官・黒田清隆は当初から樺太アイヌを石狩平野内陸部の対雁に移し、そこで農耕に従事させる計画を立て、それに固執し続けました(田崎1992:96)。その計画を知ると、樺太アイヌ人たちは強硬に反対します。自分たちは樺太の海岸部で漁業をして暮らしてきたのであって、慣れない内陸の地で農業をすることなどできない。また密集して住むことになれば、伝染病の被害を受けるおそれがある。こうしたもっともな懸念からでした。
この声を現場で聞いた、担当の松本十郎・大判官は、北見地方なら、彼らの希望に沿った暮らしができると黒田開拓長官に進言しましたが、黒田長官はそれには耳を貸さず、対雁への移住を強行します(田崎1992:110)。そのやり方はこのようなものでした。宗谷からの移住を嫌がり、逃げようとする樺太アイヌを、30名の警官隊が銃を向けて威嚇し、大型船・玄武丸から空砲を発射し、武力をもって無理矢理乗船させたのです(田崎1992:111)。
一行は中継地点の小樽手宮港へと向かいます。その船中で悲劇が起こります。樺太アイヌのリーダーの一人である、楠渓町の乙名・此兵衛(アツヤエーク)が、開拓使のこの強硬策とそれに反対する同胞との板挟みになり、激しく苦悩した末に、この船中で(もしくは小樽上陸後に)「血を吐いて」死ぬのです(田崎1992:112)。此兵衛の遺体は、小樽手宮に葬られました(石井1992:28)。
また開拓使官吏としてこの樺太アイヌ移住の件を担当した松本十郎は、黒田長官による対雁移住方針の理不尽さに抗議の意を表明した上で、1876(明治9)年に辞職をしています(田崎1992:121-122)。
1876年(明治9)年7月に、強制的に対雁に移住させられた800名以上の樺太アイヌの多くは、1882(明治15)年に開拓使が廃止されると、内陸の対雁から海岸部の来札(らいさつ)や厚田に次第に居を移し、対雁移民共救組合を結成して、漁業に従事するようになりました。
そこに打撃を与えたのが伝染病でした。1879(明治12)年ごろおよび1886(明治19)年と翌年にコレラと天然痘が蔓延し、対雁と来札、厚田の樺太アイヌから300名を超える死者が出るに及びました(「真願寺ウェブサイト」-「対雁の碑」では、同寺の過去帳を基に319名の死者数を挙げていますが、来札、厚田に移っていた樺太アイヌの死者はそこに含まれていない可能性があり、死者数はそれを上回るとも考えられます)。
1905(明治38)年、日露戦争後に南樺太が日本領となるや、残された樺太アイヌのほとんどが帰郷します。しかし強制移住から時はすでに30年が経っており、故郷のコタンにはすでに違う人が住んでいたりして、もとの暮らしに戻るというわけにはいきませんでした。
その後には1945(昭和20)年に日本が第二次世界大戦に敗戦したことによって、対雁から帰郷した人たちを含む樺太アイヌに「引き上げ」という再度の強制移住が課せられます。取るものも取りあえず故郷を追われ、戦後開拓と称して割り当てられたのは地味乏しい土地でしかありませんでした。
1961年のことです。北海道電力火力発電所建設工事のため、対雁の坊主山を崩したとき、大量の人骨が出土しました。「しかしそれは誰にも顧みられることなくブルドーザーのキャタピラーにふみしだかれ土砂に埋められた」といいます(石井1992:21)。
1964年8月の大雨で、江別市対雁市営対雁墓地の「樺太移住旧土人先祖之墓」付近の表土が流され、多量の人骨が現れました。江別市は出土した人骨を改葬葬することにしました。その機会に北海道教育委員会、江別市教育委員会、北大医学部解剖学教室が合同で発掘調査を行いました。その結果、成年男性2体、成年女性2体、若年2体、計6体の土葬された遺体が副葬品と共に発掘されました。また火葬された遺体100体余りが、合葬された状態で発見されました(「江別市対雁樺太アイヌ墓地調査概要」1965年)。
北大の2013年の開示文書によると、江別市で出土した樺太アイヌの遺骨20体、とそれとは別に樺太から持ち去られた樺太アイヌの遺骨74体を北大は収蔵していることになっています(また同資料によると「樺太」とは別枠で、江別から出土した4体(「昭和10年火力発電所工事中」もしくは「昭和11年護岸工事中」発見などと記載の3体とほか1体)の記載があります)(「遺骨資料最終版」-「2013年北大開示文書」、北大開示文書研究会、2022年3月6日閲覧)。これら樺太アイヌの遺骨はいまだに北海道大学アイヌ納骨堂に置かれたままです(『北海道大学医学部アイヌ人骨収蔵経緯に関する報告書』59₋61ページをも参照)
強制移住と伝染病による樺太アイヌの犠牲の規模が明らかになったのは、江別市の真願寺が過去帳を代々保存してきたためでした。樺太アイヌの遺骨が埋葬されている江別市共同墓地には、その人たちを追悼する2つの碑が建てられています。1つは共救組合の組合長・上野正が1890(明治23)に建立した「乗佛本願生彼国」の碑、そして、北海道に残った樺太アイヌの一人・津山仁蔵さんが1931(昭和6)年に建てた「樺太移住旧土人先祖之墓」です。樺太アイヌの受難を知った豊川重雄さん、小川隆吉さん、石井清治さんらを中心に準備が進められ、1979(昭和54)年にこの江別市共同墓地において第一回樺太移住殉難者慰霊墓前祭が執り行われ、それ以降毎年継続されています。
参照文献
石井清治1992「失われた伝説を求めて」樺太アイヌ史研究会(編)1992『対雁の碑:樺太アイヌ強制移住の歴史』北海道出版企画センター:11ー35。
樺太アイヌ史研究会(編)1992『対雁の碑:樺太アイヌ強制移住の歴史』北海道出版企画センター。
田崎 勇1992「対雁強制移住樺太アイヌの記録」樺太アイヌ史研究会(編)1992『対雁の碑:樺太アイヌ強制移住の歴史』北海道出版企画センター:37ー291。
山田秀三2000『北海道の地名』(アイヌ語地名の研究 別巻)草風館。