ペルー アヤクチョ

武力紛争で奪われた家族の記憶

「もしかしたら『さよなら母さん』言っているかもしれません」マルガリータアルヴィテスさん

証言者
マルガリータ・アルヴィテス・オチョアさん
(Margarita Alvítes Ochoa)

生年月日 1937年2月22日
州 アヤクチョ
郡 ウアマンガ
区 サンアントニオ・デ・サピ
子供の数 3人
アンファセップ参加年 1985年
犠牲者および事件発生日
夫、アルビーノ・フローレス・カスタン(1985年2月7日)
息子、アントニオ・フローレス・アルビテス (1985年2月8日)

 暴力に巻き込まれるまでは、ウワマンガのバリオス・アルトス地区にあるピスコ通りで、夫と子どもたちと共にに静かに暮らしていました。夫と息子は、家に織機りを据えて毛布やカーペットを作っており、主に注文はリマ市から受けていました。リマから卸売業者が来て、注文の品を運んでいました。注文が多い時には、夜間に働ける職人さんや労働者を雇うほどでした。夫は仕事に忙しく、悪いことに首を突っ込むような時間はありませんでした。衣食住に困ることはありませんでした。息子のアントニオには妻と子どもがいて、自分専用の機織り機を持って働いていました。稼いだお金で小さな弟たちを助け、服を買ってくれたりもしていました。

 ある夜、私たちはバリオス・アルトスの家で寝ていました。にわかに犬たちが吠えはじめたので、私は恐怖で目覚め「何ごとだろう、何か良からぬことでも起こるのだろうか」と呟きました。それは、1985年2月7日の午前1時頃のことでした。突然、入り口の木製のドアを蹴る音が聞こえ、3度ほど蹴られてた後、鍵が壊れました。そして、目出し帽を被った男たちが息子の部屋に入っていきました。別の男が部屋の電気をつけて、私と夫が寝ている部屋に入ってきました。捜査員の一人が夫の名前を訊ねました。夫がアルビノ・フローレスだと答えると、捜査員は「起きろ、ジジイ!」と叫びました。スペイン語が苦手な私が調査員になぜ夫を起こすのかと尋ねると、「黙れ、ババア!」と言って私をベッドに押しのけ、上から毛布を被せられました。子どもたちも口々に「なぜお父さんを起こすんだ?なぜ父を連れて行こうとするのか?どうして?」と言いました。

 私も立ち上がって「私の夫は泥棒ではないし、ましてやテロリストではありません!」と言いました。「夫はずっと家で働いているんです。彼は無実です」。

 その後、私たちはやむを得ず彼らに従うことにしました。捜査員たちは、夫に身分証明書を携帯するように要求しました。息子が、壁にかかっていた上着を夫に渡しました。夫は、靴を持ってくるように息子に頼みましたが、なかなか見つかりませんでした。ようやく息子が持ってきた靴は、古ぼけてパッチワークのように継ぎはぎがされており、作業用に履いていたものでした。さらに、息子が父のために編んだ新品同様のクリーム色のベストも手渡しました。捜査員の一人が毛布を持ってくるようにと言ったので、夫は自分で編んだ毛布を取り出して持っていきました。

 その後、アントニオの部屋に行くと、連行に備えて靴を履いているところでした。私が、息子に抱き着こうとすると、そばにいた捜査員が私を床に投げつけけました。そして、もう一人の捜査員がドアの方へ私を押しやると、木でできた非常に硬いドアに向かって私を投げつけました。その時、末っ子のマリアーノが「母さんに触るな!母さんは病気で体調を崩してるんだ!」と叫びました。すると、男はリボルバーを取り出して銃床で息子の頭を何度も殴りつけました。息子は気を失ってしまいました。他の捜査員たちは、夫と息子を家の外に連れ出しました。男たちは、夫と息子がどこに連れて行かれるのかも教えてくれませんでした。捜査員の一人が入り口のドアの立ちはだかり、私たちが後を追わないように見張っていました。私たちが泣いていると「クソ野郎め!黙らないと今すぐ撃って殺すぞ!」と凄むので、私は「セニョール、撃ってください!私を殺してください!」と言い返しました。私は「セニョール、教えてください、夫たちをどこに連れて行くんですか」と懇願しました。すると、男は捜査本部だと答えたので、私は「わかりましたセニョール、ありがとう」と言いました。男たちが去った後、私は末の息子を腕に抱えて裸足で彼らの後を追いました。夜の暗闇の中、夫たちは車に乗せられて連れ去されました。

 私は、すぐさま義父のところに行って、泣きながら助けを求めました。義父は私たちに言いました。「大丈夫だから、落ち着いて一旦家に戻りなさい。彼らに罪はないのだから。家に戻って物を取られないようにしなさい。明日、一緒に犯罪捜査部へ行ってみよう」。

 翌朝、朝食を持って犯罪捜査本部に行ってみると、夫はここへは連れてこられていない、昨夜は誰もパトロールに出て行かなかった、きっと軍が連れて行ったのだろうと言われました。

 「キカパタか、空港脇の兵舎か、アガラス・デ・オロか、カサ・ロサーダのいづれかに連れて行かれたのだろう。お前の夫はそこにいるだろう」、

 私は、言われた場所に行ってみましたが、いづれの場所でも、昨夜は誰も出動しなかった、ここへは誰も連れて来ていないと言われました。途方に暮れた私は、アガジャス・デ・オロの前で一人佇んでいました。すると、ある男性が近寄って来て私に言いました。「きっと犯罪捜査員たちが連れて行ったんだ。告発しなさい。やつらが連れて行ったとしても、自分たちがやったとは決して言わないだろう」。

 そう言われたわたしは、再び犯罪捜査本部に戻って言いました。「私の息子と夫がここにいることはわかっています。どうか、彼らにこの朝食を与えてください。彼らもあなたと同じ人間なのです。どうかお願いします。夫と息子はお腹を空かせているでしょう。もしこの朝食を届けてくださったなら、きっとあなたにも神のご加護があるでことでしょう」。

 ですが、彼らはここには誰も連れてきていないと繰り返すだけで、朝食も受け取ってもらえませんでした。その後、カサ・ロサーダに行って夫のことを尋ねたましたが、答えは同じでした。「連れてきていない」、「夜は誰も出かけなかった」と。

 カサ・ロサーダにいた兵士たちが、犯罪捜査本部に送られているはずだと言うので、私は3度犯罪捜査本部へ向かいました。私がしつこく尋ねると「この女は、何度もやってきてはフローレス、フローレスしつこく喚きやがる。さっさと捕まえて牢屋にぶち込んでしまえ!」と怒鳴られました。私は、怒りに震えました。「逮捕したければすればいい。牢屋にぶち込んでくださいよ。あんたが望むなら、子ども達もみんな連れてきてやるから。みんな捕まえて夫や息子と一緒に殺せばいいさ。そうしたら、私たちのために泣く人も誰もいなくだろうから。私はすっかり体を病んでしまって、何のために子どもたちをここまで育ててきたと思ってるんだい。こんなことのために、子どもたちが殺されるために育ててきたと言うのかい!」。私は、入り口で泣き続けました。すると、1人の男がまた同じことを言いました。「セニョーラ、ここにあなたの家族は連れこられていないんです、昨晩は誰も出動しませんでした」。

 次の日、食べ物を持ってもう1度犯罪捜査本部へ行ってみましたが、返って来る答えは同じでした。月曜日、私たち夫婦は息子の嫁と一緒に空港脇にある兵舎に向かいました。入り口の兵士に尋ねると「確かに、昨日の日曜、太ったメスティーソの男と背の高い黒髪の若い男が連れてこられた。彼らはここにいる。私が彼らに食べ物を与えている」と言いました。それを聞いた私は、泣きながら彼に言いました。「お兄さん、あなたにも何か持ってくるわ。あのかわいそうな無実の拘束者たちに食べ物を与えくださっているだなんて。きっと神はあなたを祝福することでしょう」。後日、私はチーズと廊下に敷くカーペットを軍曹にプレゼントし、夫と息子に食べさせてくださいと食べ物を言付けました。数日後、私は体調を崩してしまったので、娘婿に食べ物を託しました。「軍曹のところにこれを持って行って、夫と息子のことを聞いてみておくれ。何かを教えてくれるかもしれないから」。

 戻ってきた娘婿は、軍曹にこう告げられたと言いました。拘束者を輸送する飛行機は、あと2、3人で満席になる。満席になり次第、国内の別の場所か他の国に連れて行くつもりだと。それを聞いた私は、夫たちは飛行機で運ばれた後殺されるのだと思って泣きました。

 翌日の夕方6時頃、学校の脇に立っていた義兄が、兵舎に飛行機が着陸するのを見たと言いました。義兄はこう言いました。「きっと俺たちを殺すために、もっと凶悪な人殺したちを連れてきたのだろう」。それを聞いて私は思いました。もし、タクシーに乗って飛行機の着陸に間に合っていれば、夫と息子の最後の姿を見ることができたのではないか。息子が私を見つけて「さようなら、お母さん」と言ってくれたのではないか。私は、空港の方を見ながら泣きました。「もし、この時間に飛行機が来ることを知っていたなら、少なくとも墓地の側に回り込んで飛行場の脇に張り付いていれば、飛行機の窓から別れを告げる家族を見れたかもしれない」と義兄は言いました。

 いったい、夫たちはどこへ行ってしまったのでしょう。遠いあの山の向こうで、母親とも父親とも生き別れた多くの人たちが泣いていることでしょう。あの時以来、夫と息子の行方はまったくわかりません。何かの罪を犯したわけでもないのに、私の家族は消し去られてしまいました。

 それから2日後、収容者を釈放するという知らせがはいったので、私は兵舎は向かい、何も食べずにコカの葉だけを噛んで夜を過ごしました。もしかしたら、夫と息子の声が聞けるかもしれないと期待していましたが、結局その情報は誤りでした。その後、検察に告発状を提出しましたが、検察官から、いかなる事件であっても、弁護士すら兵舎には入れないと言われました。私は、夫が作った毛布をあげるからと、弁護士にも懇願しました。しかし、弁護士からも同様に誰も兵舎には入れてもらえない、いかなる事件であろうともと言われました。入れてくれるものなら、中に入って助け出してあげたいんだがそれはできないと言いました。

 しかたなく、私はサンタ・バルバラやインフィエルニージョなどの、遺体が投げ捨てられている場所にも探しに行きましたが、そこに夫たちの姿はありませんでした。ろくに食事もとらずに、探し回っていたせいで体を壊してしまい、腎臓の手術をしなければなりませんでした。残った2人の娘は、父親のいない孤児になってしまいました。

 丁度その頃、アンファセップという行方不明被害者の家族たちによる団体があることを聞いて参加し始めました。それ以来、私はずっと団体の活動に参加しています。今になっても、私の心は穏やかではなく、日々に幸せを感じることもなく、様々な問題を抱えています。私の愛する家族を消し去った人々への怒りや憎しみは消え去らず、夫や息子を思い出しては泣いています。病弱となったため、普通に働くことができません。時折思います。もし息子が生きていたならば、夫を亡くした後でも私に無理に働かせたりしなかっただろうし、老いた私が生活のために働く姿などを見たくもなかったと思います。そしてきっと「僕が働いて稼いでくるから、お母さんは料理でも作って家でゆっくりしててよ」と言ったことでしょう。話していると泣けてきます。今の私は、たとえ病気であろうが、孫たちに学用品を買ってあげるために、軽食やウミータスを売り歩いています。アンファセップの会議にもよく参加します。

 いつの日か、夫と息子が現れてくれることを望みます。たくさんの時間が過ぎ去りましたが、夫たちの行方は何もわかりませんでした。少なくとも、政府には賠償金や補償金を支払っていただきたいです。隣人たちも、どうしてあんなに陽気で何の罪もない人たちが連れて行ってしまったのかと悲しんでいます。二度と、あのような乱暴者たちが戻ってこないことを祈ります。いつか同じようなことが起こるのではないかと心配しています。孫をはじめとした来る世代の子どもたちには、私たちのように泣いてほしくないし、苦しい思いをしてほしくありません。二度とこのようなことが起こってはいけないのです。大学で学んでいる一番下の孫が、辛い思いをすることなく学業を終えてくれることを願います。政府は、賠償金を求めているのになぜ今になるまで払ってくれないのでしょうか。あの日からすでに21年が経ちました。メンバーの中には、家族が失踪してから23年、24年も経ってしまった人たちがいます。

2022年03月20日更新