「行方不明の家族の体を探し出し、尊厳ある埋葬をしてあげたい」エレーナ・ゴンサレスさん
証言者
エレーナ・ゴンサレス・チンキージョさん
(Elena Gonzales Chinquillo)
生年月日 1958年8月13日
州 アヤクチョ
郡 ヴィクトル・ファハルド
区 ヴィルカンチョス
子どもの数 5人
アンファセップ参加年 1998年
犠牲者および事件発生日
夫、マルシアーノ・クラウディオ・チュキ (1983年4月29日)
実父、マルティン アルカディオ・ゴンザレス・ロハス (1983年10月27日)
実母、フリア・チンキージョ・ミランダ (1983年10月27日)
弟、サンティアゴ・ゴンザレス・チンキージョ (1983年10月27日)
私の父はエスピーテ、母はヴィルカンチョスの出身です。私は母の村で生まれました。その後、両親はエスピーテに移り住みました。私に家族ができると、夫とウィルバー、メリダ、クリスティアンの幼い子ども達と共に、ヴィルカンチョス区のサン・ハシント村で暮していました。私達は村で雑貨屋を営んでおり、食料品やお酒、洋服や農工具など、あらゆるものを販売していました。
1980年にはパラスへ抜ける道路が完成したので、そこの市場でも出店していました。市場での商いも覚えて商売は順調でした。そのほかにも、家畜を育て畑では穀物やジャガイモなどを栽培していたので、何不自由ない生活を送っていました。
6月には聖ペテロと聖パウロの祝祭日がありました。2月2日には聖母カンデラリアの祝祭日があり、祭りは1週間にも及びました。8月に入ると、山々に儀礼と供え物を捧げて自然の神々や守護聖人のお許しをいただいた後、家畜の耳にリボンをつけてお祝いをしました。女性達はピンクや赤の衣服で鮮やかに着飾り、男性達はくるみ色のポンチョやビクーニャのポンチョを身にまとって踊りました。
センデロ・ルミノソがやってくる前、教会に飾られている聖人達の顔が悲しみに沈んでいるように見えると言う人がいました。何かいやなことが起こるのではないかと、その人は言いました。
1983年2月2日、聖母カンデラリアの祝祭日のことでした。2人の目出し帽をかぶった見知らぬ男達が、武器を携えてエスピーテの村に現れました。私は、特に注意を払うことなく、誰が来たんだろうと思ったくらいで、店番を続けていました。その後、男達は消えてしまいましたが、彼ら以外にも複数の見知らぬ男達を見たと村人達は話していました。3月に入ると、パラスの村でも多くの見知らぬ人達がやってきてうろつくようになりました。
男達は、私達の暮らすサン・ハシントの村にもやってくるようになりました。ある夜、隣人宅の犬が殺されました。死んだ犬の上に「これが密告者の死に様だ」と書かれた紙が置かれていました。パラスの市場へ行くと、重装備の兵士達が街を歩き回っていましたが、何があったのかは尋ねませんでした。
ある日、日付は忘れましたが、見知らぬ男達がエスピーテに乗り込んできました。男達は、クリサント・キスペ氏の店を略奪して去っていったので、私達はただの泥棒だと思っていました。
1983年3月、目出し帽を被った男性5人と女性3人がサン・ハシント村に現れました。彼らは私の店にやって来て援助を請うたので、私達は彼らに食べ物や生活物資を与えました。すると彼らは、私達に店を閉めるように言い、村中の人々を学校に集めました。そして彼らは、「我々に従わない者には罰を与える。我々の言うことを聞かない者には罰を与える」と言いました。そして、何人かの若者を指名すると、「君達はこれから私達と共に働くのだ」と言いました。
その後、彼らはサン・ハシントに1週間近く滞在しました。その時はイースターで、私はウアマンガに出掛けていました。そして、村に帰る途中でルカナマルカで何者かが多くの村人を殺害したというニュースを耳にしました(1983年4月3日の出来事)。
その事件の翌日の4月4日、ルカナマルカの村人達がエスピーテのプナにやってきて、小屋にいた村人達を引きずり出して連れていってしまいました。その場にいた村人達は、ほぼ全員連れ去られました。そして、一人残されたドン・ファビアン・ベガ氏は、軍のヘリコプターに乗せられ連れて行かれました。
4月9日、3機の赤いヘリコプターが現れ、私達の村を取り囲んだかと思うと山や渓谷に爆撃を加え始めました。オクラの丘に着陸したヘリコプターから、20人以上の武装した兵士や警官が降りてくると、彼らはピスコパタを通って村までやってきました。兵士達の後ろには、無線機を肩にかけたファビアンが立っていました。
村人の多くは、恐怖におののいて村を逃げ出しました。私の夫も同様でした。ですが、妊娠6か月だった私は店に残りました。店にやってきた兵士達は、テロリストの夫はどこにいるのだと聞きました。私は、膝をつかされて銃を突き付けられた状態で首に投げ縄をかけられ、「白状しないとお前を絞め殺すぞ!」と脅されました。彼らは家に中に入り込み、好き勝手に商品のビールやソーダを飲みビスケットを食べ始めました。
兵士達は、彼らのためにスープを用意することを強要し、その間も他の家に行ってはドアを叩き壊して略奪を繰り返しました。私は、兵士達に連れてこられたファビアンと共に料理を作り始めました。お店から大きな鍋を取り出して、ファビアンが持ってきた6羽の鶏をさばいてスープを作りました。
兵士達は夜8時頃に戻ってきて、用意したスープを食べました。牛乳があるのを見つけた兵士がそれもよこせと言いましたが、私は腐っているからといって渡しませんでした。ファビアンは、兵士達が休めるようにと毛布まで持ってきましたが、兵士達は店の酒やビールを取り出してきては一晩中飲んでいました。
私は眠ることができず、子ども達と台所に座って恐怖に怯えていました。さらに朝食を用意するよう命じられたので、深夜2時から用意をはじめました。兵士達は午前4時頃に食事を済ませると、6時頃にはパラスに向けて出発しました。
去り際に、泣いている私を見た老兵士が言いました。「セニョーラ、もう泣かないでおくれ。俺達だって、無理やりここへ送られてきたんだから。」パラスに到着した兵士達は、ビルヒリオ・ワランカ、エスティロ・アヤラ、パトロシニオらを殺害した後、ウアマンガへ戻っていったとのことでした。
兵士達がやってくる前、パラスの村では集会に参加しなかったという理由で、イサベル・ベガ、プラシド・グティエレス、セラピオ・アランゴの3名の男女がセンデロ・ルミノソによって殺害されました。おそらく、ビルヒリオらは、センデロ・ルミノソに何らかの支援をした疑いで、兵士達に殺害されたのだと思います。
1983年4月29日、私の夫が殺されました。私達は、センデロ・ルミノソと兵士達の両方に食料を提供したため、双方から目をつけられていたのでしょう。その日、夫はお酒を飲んで休んでいました。朝起きた時、広場で若者達がサッカーに興じていました。それを見たサッカー好きの夫は、ゲームに加わるために外に出て行きました。夕方6時頃、赤くなった太陽が沈みかけようとしているのに夫は戻って来ませんでした。9時になっても帰ってこないので、仲間と飲んでいるんだろうと思って探しに行きました。サッカーをしていた村人達に夫を見たかと尋ねると、見ていないと言われました。私は、懐中電灯を持って夫を探しまわりました。一旦は家に戻ってしばらく座っていましたが、午前3時頃に父母宅へと向かいました。そして午前4時半頃に父と一緒に自宅に戻りました。コカの葉で夫の行方を占った父親が、私に向かって言いました。「お前の夫はもういない。消えてしまった。」その後、父が岩場で血痕を見つけました。その血痕をたどっていくと、川に投げ込まれた夫の遺体を見つけました。それを見た私達は泣き叫びました。
村人に夫を運ぶのを手伝ってくれるよう頼みましたが、みんな怖がって、誰も協力してくれませんでした。夫は、ポンチョで首を絞められた状態で殺されていました。4月30日の夜、私達は夫の遺体を墓地へと運んで埋葬しました。そして、その5日後に夫の衣服をすべて洗いました。
私も狙われていると村人が言うので、子ども達を両親に預けて一人ウアマンガへと逃げました。5月15日のことでした。その後、娘マルレーネをウアマンガで出産しました。8月に入る頃、パラスに駐留している兵士達が私の雑貨店に入り込み、店の商品を略奪していったと知らされました。私は、商品を取り返すためにパラスに向かいましたが、駐屯地ではピューマと名乗る中尉に2日間拘束されてしまいました。中尉は、ついてきた私の犬に銃弾を2発撃ち込んで殺しました。
1983年10月27日の夜、トトスに駐留している兵士達が村にやって来て、私の父母と弟を連行しました。さらに、叔父のトマス・クラウディオ・バルデスとマリノ・ラモス・トゥデラーノ、そして村の小学校で教えている2人の教師も共に連行されました。後日、2人の教師は釈放されて村に戻ってきました。教師のひとりに状況を尋ねると、駐屯地に着くとそれぞれ個別の部屋に閉じ込められたとのことで、両親はまだトトスの駐屯地に残っていると教えてくれました。
私はエスピーテに戻り、子ども達と妹のネリーとエピファニー連れて村を離れました。家畜は連れていくことができないので、近所の村人に譲りました。ウアマンガでも、夫の行方を探して尋ね歩きました。行方不明者の親族は、喪に服して黒い服装をしていたためお互いに認識しあうことができました。私は、家族の強制失踪を検察庁に告発しました。中央広場では、家族を探している人をたくさん見かけました。そして、家族を亡くした人達が市庁舎で集まっているというので行ってみることにしました。そこには、沢山の女性達が集まっていました。1984年1月のことでした。
アンヘリカ婦人が、行方不明者の捜査を要求するために家族の写真を用意した方がいいと教えてくれました。ですが、私は両親の写真を持っていませんでした。私は、生活のために働かなければならなかったので、長い間、会議に参加することができませんでした。ウアマンガにいる間も時折農作業のために村に戻り、ジャガイモやトウモロコシ、ソラマメなどを街へ持ち帰りました。
ある時、同郷のフリア・メンドーサから、なぜ家族を探さないのかと言われました。行方不明被害者の家族が団体を作って闘っているといい、彼女は私をアンファセップの事務所に連れていきました。1998年のことでした。それ以来、アンファセップの活動に参加するようになりました。活動に参加していると、少しは気が晴れ、不安も少なくなりました。また、常に会議を重ねていたためスペイン語も上達しました。1度は、団体の代表にも選ばれました。今は団体のために一生懸命働いています。
私は、正義を求め続けます。行方不明となった家族の体を見つけ、尊厳ある形で埋葬してあげたいと思っています。そうすることで、事件の苦しみを忘れられたらと思っています。それまでは、忘れたくても忘れられません。正義は果たされるべきです。けれども、いつまで待ち続ければいいのでしょうか。時折、夢の中に母が出てきて言うのです。「娘よ、もう泣かないでおくれ。私はリマに連れて行かれたのよ。だからもう泣かないで。」