ペルー編 イントロダクション
サイト制作者より
「ペルーで1980年から国内武力紛争が起こり、アンデス山脈の先住民族を中心に7万人の犠牲者が出て、2万人はいまだに行方不明・・・」
このことをサイト制作者の小田が知ったのは、2019年1月に北海道に講演旅行にいらしたタニア・パリオナ・タルキさん(ペルーの元国会議員で、先住民族の村の出身)のお話からでした。その後、縁あって2度このページの舞台であるアヤクチョを訪ね、そこにある記憶博物館や近隣の村で滞在して、その武力紛争の被害の深刻さをようやく垣間見ることになりました。日本ではほとんど知られてないペルー国内武力紛争を、被害を受けたアンデスの人びとの側に立って知ることができるウェブページを作ろうと思い立ち、現地からの協力をいただきながら作成したのがこの「ペルー アヤクチョ 武力紛争で奪われた家族の記憶」です。
その内容の3本柱が、バーチャル記憶博物館、紛争の証言集、行方不明者の遺体の発掘と再埋葬を取材した写真集です。前の2つは、紛争によって家族が行方不明になった女性たちのグループ「ペルー誘拐・拘束・行方不明者家族の会(アンファセップ)」の手になるものです。アヤクチョにある1フロアの小さな記憶博物館には、奪われた家族の思い出と紛争の記憶が詰まっています。また証言集『沈黙はいつまで』はより詳しく、紛争の経験が語られています。遺骨の写真をも含む『痛みの帰郷』は、この武力紛争がまだ終わっていないことを語っています。
博物館の展示物の写真とその説明、証言集の声、それに遺体発掘の写真。このページを作成しながら、何度もこれらに目を通すと、私はその内容の残酷さにショックを受け、苦しくなりました。なぜ人間はこれほどひどい暴力を他人にふるうことができるんだろうか、と。それと共に考えたのは、私はこれから目を背けることができる、しかし、当事者はこれをかかえて生き続けなければならない、それは私とは比べものにならない苦しさと痛みだろう、ということでした。
閲覧者の皆さんにも、もし閲覧していて気分が悪くなったり、精神的に動揺した場合には、閲覧を中断して心を落ち着かせたり、信頼できる方と話をしたりなさってくださるよう、最初にお伝えしておきます。
しかし、現地のアンファセップの女性たちとやり取りをする中で、本当に大事なことは別にある、ということが私には段々とわかるようになりました。それは彼女たちが想像を絶するほどの残酷な経験をしながらも、それに押しつぶされず、巨大な暴力にも屈せず、奪われた家族を取り戻すために、沈黙を破って名前と顔をさらして歩み続ける、本当に力強い「生きる姿」です。これに私は深い畏敬の念を抱いています。
そして、「アンファセップの十字架」に書かれた「NO MATAR(殺すなかれ)」という言葉。いのちがあれほど粗末に扱われた時代に、彼女たちは「殺すなかれ」と記した十字架を掲げて、街を行進しました。自らの身の危険を顧みず。そこに表された「いのちを育む」という価値観が、この先住民族の女性たちが受難を通して達した、あるいは立ち還った、世界への根源的なメッセージではないでしょうか。
これからご覧になるバーチャル展示や証言、写真から悲惨さや残酷さだけを受け取るとしたら、それは表面的な理解で終わってしまいます。本当に大切なことは、それよりも深いところにあります。かけがえのないいのちを殺すなかれ、という思い。その思いを、いかなる暴力にも屈せずに表す勇気ある姿。センデロ・ルミノソや国軍によっても決して破壊することのできなかった、いのちを育み合う世界。これらはアンデスという遠いところに限定されるものではなく、この閲覧者の多くが暮らしているであろう日本においても、また世界の他の場所でも、本質的な価値ではないでしょうか。それをくみ取っていただければ幸いです。
小田博志
このページの構成
このフィールド(ペルー アヤクチョ 武力紛争で奪われた家族の記憶)は4つのセクションに分かれています。
I イントロダクション
このページの下でペルー国内武力紛争と、それによって家族が行方不明になった人たちが結成したグループ・アンファセップ(ペルー誘拐・拘束・行方不明者家族の会)の解説をご覧になれるほか、アンファセップのメンバーと関係者のビデオメッセージをご覧になれます。
II バーチャル記憶博物館
アンファセップが設立した施設の展示内容を、オンラインで追体験できるように構成しました。
III 証言集『沈黙はいつまで:痛みと勇気の証言』
アンファセップの青年たちが母たちの経験を聞き取って記録した証言集です。原書(スペイン語版)には41名の証言が記録されています。このウェブページにはそこから22名の証言を日本語に訳して収録しています。
IV 写真集『痛みの帰郷』
アンファセップの女性たちをはじめ、今も行方不明の肉親を捜している人たちが多くいます。残酷なことにその肉親たちは殺されて、秘密墓地に埋められたままである可能性が高いです。4000にものぼると推定される秘密墓地の発掘は始まったばかりです。これはその発掘作業にカメラマンのミゲル・カストロ・メヒーア氏が密着して撮影した写真集です。(※遺骨の画像が出てきますので、閲覧にご注意ください。)
倫理的な配慮について
バーチャル博物館や証言集には、犠牲者と証言者の実名、顔写真などが掲載されています。これらはアンファセップを通して、全てご遺族(証言者)本人から許可を得ております。また写真集『痛みの帰郷』の写真家ミゲル・カストロ・メヒーアさんは、現地で取材の説明を行い、許可を得た上で撮影を行っています。このページに掲載する文章と画像の転載許可を、アンファセップとミゲル・カストロ・メヒーアさんから得ております。
アヤクチョ
アヤクチョ地図
南米のペルーの南西部にアヤクチョと呼ばれる地域があります。アンデス山脈の中ほど約2700mの標高にその州都ウワマンガが位置し、周辺の広大な山岳部には先住民族の村々が点在しています。
こうした風景が広がるアヤクチョ州が、この「ペルー アヤクチョ 武力紛争で奪われた家族の記憶」の舞台です。この地域を中心に1980年から2000年にかけて吹き荒れた武力紛争を、そこに暮らす先住民族の村人たち、特に女性たちがどのように経験したのか、彼女たちはその記憶をどう表しているのか、いま何を求めているのか、その声に耳を傾けましょう。それは日本・北海道から遠く離れたところで起こった出来事です。しかし、そこで生きる人たちの姿から伝わってくるものは何か、その歴史から学べることは何か、ふり返って考えていただけると幸いです。
ペルーの国内武力紛争
日本でアンデス山脈と言えば、インカ帝国やマチュピチュが有名です。しかし、アヤクチョにはインカ以前の「ワリ文化」が栄えていました。それがインカに征服されてインカ帝国の時代を迎えます。スペインがこの地を侵略したのは今から500年ほど前のことでした。スペインはインカ帝国を滅ぼして、南米のブラジルを除く地域を支配下に収めます。それからの長きにわたって、スペイン系白人による先住民族(「インディオ」などと呼ばれました)に対する政治的経済的な支配体制が固められ、1821年のペルー独立後もこの植民地主義的な社会構造は変わることがありませんでした。この不平等な状況を背景に武力紛争は起こりました。
アヤクチョには国立サンクリストバル・デ・ウワマンガ大学があります。その哲学科教授としてアビマエル・グスマンがやってきたのは1962年。グスマンはアレキパという地方都市出身のメスティソ(先住民とスペイン人との混血)でした。そのグスマンが、毛沢東主義の影響を受けて1970年に「ペルー共産党-センデロ・ルミノソ(輝ける道)」を組織し、その最高指導者となります。グスマンらはアンデスの農村の状況を一方的に「貧困」と定義しました。そして「農村から都市を包囲する」という毛沢東流の考え方のもと、武力による革命を試みます。それがアヤクチョ地方で始まったのが1980年でした。センデロは自分たちの方針に従わない村人を公開処刑したりして、恐怖による支配を進めていきました。
ペルー政府(ベラウンデ政権1980‐85年)は、当初、首都リマから遠く離れたところで起こっているセンデロの武装闘争を重くは見ていませんでした。しかし事態が深刻化すると、政府はこの一帯を非常事態宣言地域に指定、国軍を派遣して掃討作戦を開始しました。しかし実際に行われたのは、センデロのみならず、その協力者と目された、多くは無実の村人の拘束、拷問、強制失踪、殺害でした。その背景には先住民に対する差別意識があったと考えられます。この国側の治安部隊(軍と警察)による過剰な暴力は、アラン・ガルシア政権(1985‐90年)においても続きました。
こうしてアンデスの先住民の村々は、極左組織センデロと国軍との板挟みになり、両者の暴力にさらされることになったのです。その結果およそ7万人の死者と行方不明者が出たと推計されています(真実和解委員会最終報告書2003年)。証拠隠滅のためセンデロと国軍双方が、殺害した村人を秘密墓地に埋め、その結果約2万人が行方不明となりました。
アンファセップの歴史
この2つの暴風は、アンデスの村々に多大な被害をもたらしました。その被害について訴えれば、また攻撃を受けるおそれがあるため沈黙を強いられることにもなりました。生き残った人々も、拷問を受けたり、間近で肉親や隣人の殺害を目撃したり、あるいは女性ならレイプをされたりして心身の傷(トラウマ)を抱えることになりました。親を失って孤児となった子どもたちも出ました。村の多くは、センデロ側と国軍側に分断され、村人同士の対立が深まり、あるいは文字通り村が消滅した場合もあります。攻撃を逃れて、近隣の都市やリマに国内避難民となって逃れた人々は、そこでも「テロリスト」呼ばわりされ、安住することはかないませんでした。当時、非常事態宣言地域に指定されていたアヤクチョは、軍の支配下に置かれ、行方不明となった肉親の捜索すらままならず、折り重なった遺体を犬や豚が食べるという凄惨な情景が見られたと言います。
しかしこのような想像を絶する過酷な状況に、アンデスの村の人たちはただ唯々諾々と従うばかりではなく、その中から沈黙を破って立ち上がり、強力な国軍に向かってでも、自らの家族を返せと声を上げる人たちが現れました。アンヘリカ・メンドーサさんがその一人です。1983年、アンヘリカさんの息子アルキメデスが19歳のとき、治安部隊によって強制的に連れ去られます。その行方を捜すアンヘリカさんを軍は罵り、銃で威嚇することもありました。しかしアンヘリカさんはそれにひるむことなく息子を探し続けました。アヤクチョには同じような運命の女性たち数多くいました。お互いに情報を交換したり、励ましたりする中で、彼女たちは次第にアンヘリカさんを中心に結束していきます。
そして当時のウワマンガ市長レオノール・サモラやソシモ・ロカ弁護士のような少数の理解者の支援を得て、会合を重ね、1983年9月2日にアンファセップ(ANFASEP:Asociación Nacional de Familiares de Secuestrados, Detenidos y Desaparecido del Perú = ペルー誘拐・拘束・行方不明者家族の会」の略称)が正式に結成されました。(⇒アンファセップ・ウェブサイト)
アルゼンチンの人権活動家でノーベル平和賞受賞者のアドルフォ・ペレス・エスキヴェル氏はアンファセップを力づけました。彼が1985年にアヤクチョを訪問した際に、アンファセップの女性たちは初めて公共の場(アヤクチョの州都ウアマンガの中央広場)で氏と共にデモ行進を行います。それまで人目を避けて集まり続けてきたアンファセップにとって、これは画期的な出来事でした。「彼は、私たちに “恐れない “という力を与えてくれました。」(リディア・フローレス)
そのエスキヴェル氏の名を冠した子ども食堂がアンファセップに併設されました。肉親を奪われた女性たちは、時には家庭を顧みずにその行方を探さなければなりませんでした。そこで家庭に残された子どもたちの食事をどうするかが深刻な問題となっていました。アンファセップのメンバーは交替で子どもたちのために調理をするようになり、1985年11月には「1985年11月7日には「アドルフォ・ペレス・エスキヴェル子ども食堂」としてオープンし、最盛期には300人の子どもが集まるまでになりました。
食堂に集まった子どもたちは兄弟姉妹のような絆で結ばれました。さらに1991年にアンファセップが独自の施設に移り、スペースができると、子どもたちに手工芸品や芸術作品の作り方を教えるワークショップが開催されるようになりました。その子どもたちが青年になった1999年に子ども食堂は閉鎖されましたが、そこに集った子どもたちから「アンファセップ青年会(La Juventud ANFASEP)」が結成されました。